自殺 確実。 家庭用の塩素系洗剤による自殺も、苦しまず簡単に死に至るわけではない|健康・医療情報でQOLを高める~ヘルスプレス/HEALTH PRESS

緩やかな自殺|まみすけ|note

自殺 確実

確実と言われもっとも有名な自殺方法といえば「首吊り自殺」。 毎年日本人の自殺者は30,000人くらいですが、その半数以上、およそ15,000人もの人がが首吊り自殺を選択し、自殺を遂行しています。 確実な自殺方法「首吊り自殺」とは 縄一本という手軽さ 道具は縄や紐、紐状のものであればなんでも使えます。 ただ、なるべく柔らかく首にピッタリとフィットするもので、 電気コード、包装用のヒモ、USBの充電ケーブル、ベルト、シーツ、タオルなど、首に巻きつけることができるもの。 ドラマに出てくるような縄じゃなきゃいけないわけじゃないので、様式にこだわる必要はないです。 百貨店などの包装用のビニール紐でも、100kg程度までの体重なら支えるのに十分な強度をもっています。 ホームセンターで売ってるようなビニール紐でも充分な強度がある。 これが、針金などの切断力があるものだと、首を切り落とすこともあります。 座ったままでも実行可能 通常首吊り自殺といえば高い木の枝などにロープをくくりつけ首からぶら下がっている姿を想像するけど、縄や紐をかけるのは折れやすい木の枝などでなければどこでも実行可能。 中学1年生の少年が本棚に5寸釘を打ち付けて首吊り自殺をしたという例もあります。 そして、自分の身長より高いところからつりさがる必要はなく、座ったままでも実行が可能です。 図のように、足やお尻が床についていても首吊り自殺は完遂してしまいます。 なぜかというと、首吊りの死因は首を締め付けられて窒息死すると思われがちですが、実際はそうではないからです。 首吊り自殺の理論は、脳へ血液を送る頚動脈と椎骨動脈が締め付けられて脳への血流が滞り 脳が酸欠状態となって死に至るものになります。 気道は締められないので呼吸困難とまでいたらず、むしろ ほんの一瞬で意識を失うので呼吸困難の暇もないといわれています。 脳に血液を送る動脈は2種類あり、 「頸動脈」と脊椎のわきを骨に保護されながら上っていく 「椎骨動脈」で、例えば首を締める場合だと頸動脈は塞がれるが、骨で守られている椎骨動脈ふさがれず、脳への血流は止められないので、死因としては窒息死になるけど、首を吊る場合は斜め上方向から首が引っ張り上げられて角度がつくために、 頸動脈と椎骨動脈の両方が同時にふさがれ、瞬時にして脳への血液供給が絶たれ、意識を失うということになります。 その差は死体を見ればよくわかり、首を絞めた死体の多くは椎骨動脈による脳への血流は続くのに、逆に脳から血液を送り出す頸動脈はふさがれているので顔が紫色に鬱血してるが、首吊りの場合はそのような鬱血の状態がほとんどみられない。 X Japanのギタリストで人気のソロアーティストでもあったHideも事故死ということではあるがタオルをドアノブにかけそこに首をつった状態でなくなっていたということなので、自殺の意思なくても簡単に死に至ることもあるという証拠です。 首を吊る高さ 首を吊る場合、血圧が170mmHgの人であれば頚動脈は3. 5kg、椎骨動脈は16. 6kgの力で塞がれます。 足が床について曲がっている程度であれば全体重の70〜80%くらいの重量が首にかかります。 膝が床についた状態でも全体重の20%くらいの重量が首にかかるので、例えば体重60kgの人であれば約12kgの力がかかるので頚動脈は完全に塞がれ、椎骨動脈は完全塞がれるわけではないので、わずかながら脳に血流があるが、時間の問題で脳は酸欠状態となりいずれ失神状態になります。 つまり、首にかかる力が体重の20%程度だったとしても、首にきちんと角度がついてさえいれば、 完全に身体をぶら下げた状態でなくても死にいたることはあるということなので、足が床についていても座った状態でも首吊り自殺は完遂できるということ。 お尻や背中が床についていた例もあるそうで、高さが30cmあれば十分だという説もあります。 欧米ではむしろ足が床についた状態の方が多いという説もあります。 充分な高さのない自分の家などでも、ドアのノブでも充分可能であり、階段の斜面を使うといった方法もあるし、とにかく どこかにロープをひっかけることのできる30cm以上の高さと十分な強度があれば自殺可能な環境にあるので「自室にいるから自殺の心配はない」とは言えないということになります。 一瞬で意識を失う 首吊り自殺の未遂率が極端に低い要因が、 短時間で死へといたるからです。 およそ10数分間誰にも見つからなければ、自殺としては完遂してしまいます。 法医学者の研究では、首を吊るとすぐに意識が遠のき、手も足も動かそうとしても動かず、しかもこの過程でまったく苦痛がないことが明らかになっており、これはすでに医学界では常識となっています。 東京で演出家が見物人の前で首吊りの演技をしてみせたところ、腰をおろしたとたんに意識を失いそのまま見物人の前で死んだという事件があります。 ある法医学者は首吊りの苦痛を体験しようとしていつでも踏み台に戻れるように準備し、踏み台から足を外した途端に失神してしまい、かろうじて居合わせた同僚に助けられたという例もあり、同様の体験例はたくさんあります。 電気コードで首をつって助けられた未遂者は、 「頭がぽわーんとしてなにもわからないうちに意識がなくなった。 息ができなくなって苦しいとか痛いといった感じはなかった」と語っています。 また、高さのある場所での首吊りで勢いをつけてぶら下がって首関節を脱臼してしまうケースもありその場合はその一瞬で心停止・呼吸停止に至るそうです。 首吊り死体は汚い? 死に至るには確実と言われる首吊り自殺の欠点としてよく言われるのが、死体の見た目がよくないということです。 たしかに、失禁したり射精したりすることがあります。 喉を締め上げられるため、下が飛び出しよだれが流れ、顔は鬱血して紫色に変色し、さらに目玉が飛び出すなどとも言われるが、ここまでひどいケースはめったにはありません。 死後何日もたっていないと目玉が飛び出すことはないし、舌も歯にひっかかれば突き出ないので、「こういった状態になることもある」という程度。 首吊り死体を写真で見ると、ほとんどがダラ~ン・ブラーンとした状態で、生きている状態とほぼ変わりません。 前述したように脳への血液供給はすでに遮断されているので、顔も鬱血していない場合がほとんどであり、見た目がよくないとは言うものの、ビルからの飛び降り自殺や電車への飛び込み自殺でバラバラやぐちゃぐちゃになった死体に比べれば格段にキレイな死体と言えます。 首吊り自殺に失敗した時のリスク 1985年に歌手のフランク永井氏が首吊り自殺を未遂しています。 妻に発見され救急車が到着した時には意識不明で呼吸も脈もなく、病院に搬送された時には瞳孔が開き昏睡状態だったそうです。 しかし奇跡的に一命を取り留め4〜5日後には意識を回復し、1ヶ月後には少し話せるようになり、その後徐々に回復はしていったものの、見舞いに行った人や妻を識別できず認知症と近い状態であったという。 すなわち脳が酸欠状態に陥って大きな損傷を負ってしまったものであろうと思われます。 失敗してしまうと生きるのにも辛い状態が続き、自殺未遂者として周りの人間からは差別的な目で見られるし、再度自殺を図らないかと監視の目でもみられます。 それどころか、脳に損傷を負う後遺症が残ると、自殺を図ること自体困難でありしかも生きることも困難という、非常に辛い現実が待っているということになります。 首吊り自殺未遂は、1年以内に首吊り自殺を成功させる また、いざ実行にあたって怖くなり躊躇して首吊り自殺未遂に終わってしまうことも多々あると思うけど、 首吊り自殺未遂歴のある人は、1年以内に再度首吊り自殺を実行し成功するという研究があります。 スウェーデンのカロリンスカ研究所による研究で、わかったそうです。 研究グループは、いろんな自殺の未遂・失敗に終わった自殺の方法と、その後の自殺のリスクの関連を、スウェーデンの全国的な長期コホート研究を実施したとのこと。 調査対象は、1973年から1982年の各種病院など施設の入院患者のうちに、過去に自殺未遂歴のある人4万8,649人に対し、2003年までの自殺状況を調査した。 その自殺について調べたところ、以前に未遂に終わった自殺の方法によって、自殺のリスクには大きなばらつきがみられたとのこと。 首つり、絞首、窒息といった自殺をした人は以前にも同じ方法で自殺未遂をしていたものが多く、首つり、絞首、窒息といった自殺未遂者の男性の54%(258人)、女性の57%(125人)が後に自殺に成功して、87%(333人)は未遂後1年以内に目標を達成していた。 これ以外の自殺未遂の人たち(ガス自殺、飛び降り、拳銃、入水)は、首つり、絞首、窒息といった自殺に比べてその後の自殺実行については確率は低かったけど、それでも注意は必要。 自殺成功者のほとんどが、未遂に終わった自殺の方法と同じ方法で自殺に成功していて、たとえば首つり自殺に失敗した自殺未遂者はその90%以上が、再度首吊り自殺を敢行し、自殺に成功。 まとめ 以上、首吊り自殺についてまとめると、 ・使用する道具はなるべく柔らかく首にピッタリとフィットする ロープ、電気コード、包装用のヒモ、USBの充電ケーブル、ベルト、シーツ、タオルなど ・ 身長より高い必要はなく地面に足がついた状態、座った状態でも実行可能 ・一瞬で意識を失い 短時間で死へといたる ・死体は汚いと言われるが、 死体が汚くなるのは極稀なケース ・失敗した時は後遺症が残り車椅子生活になることも ・首吊り自殺未遂歴のある人は、1年以内に再度首吊り自殺を実行し成功するという調査結果 死にそびれたら後悔する死に方をするくらいなら、自殺を実行できるほどの行動力があるなら、その行動力を、まず幸せに生きることに使って見てからでもいいんじゃないでしょうか。 実際私も、自殺を計画するくらいまで精神的に追い込まれたことがありましたが、そのことを通院している精神科の主治医に話したりして、ある意味救われた経験があるのですが、そのときに「確実な自殺方法」を知っていたことにより、「やるだけやってから、言いたいだけ言ってから死ねばいい」とドライに考えることができたので、結果的にまだ死なずにいますし、今でも「いつでも死んでやる」って気持ちで生きてます。

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写真を本格的に撮り始めてから、10年以上あたため続けてきたテーマがある。 Fragments of Suicides 「自殺の断片」。 それぞれの自殺方法をモチーフに写真と共に物語や詩なんかを綴っている。 さくらももこが骨折の三角巾や鼻血に憧れたように、私は幼い頃から死や精神病に甘美な憧れを抱いていた。 そういうダークなものに惹かれ、そういう世界に浸る子供だった。 死のうと本気で考えるような悲しみもあったし、死んだあとどうなるか見てみたい、という好奇心もあった。 死ぬことも、死なないことも、私にとっては生きる事だった。 生きていればその美しい悲しみと寂しさ、そして未知の世界を追求できる。 死んでしまえばその後を知る事は出来るが、それでおしまいだ。 おしまいにしてしまうには惜しい気がした。 しかし突発的自殺未遂は三度ほどしてしまったし、今ここにいてこの物語を綴る事が出来ているのは、あの時死ななかったからだ。 多くの自殺は突発的で事故的なものだろうと私は考える。 それで死んでしまうか、生きながらえるか、だ。 運良く生きてしまえば、それきり自殺をしない人もいるだろうし、何度も繰り返してしまう人もいる。 追い詰められてどうしようもなく死を選んでしまう人は、本当は死にたくなかったのかもしれないし、死んでいなかったらいい未来が待っていたのかもしれない。 きれいごとを言ってしまえば、それだけのものになってしまう。 私はきれいごとなんて言いたくないし、結婚して、子供がいて、それなりに不自由のない暮らしをしているけれど、常に死への憧れや突然襲ってくる死ななくては、の発作はいまだにある。 無理をして明るく楽しい未来!なんて馬鹿げた絵空事に夢見るよりも、私はダークで甘美な死や精神病の世界に浸っていたいし、苦悩や逆境は私にとって生きる原動力であり、創造性を奮い立たせる。 プライベートではムスッとしてピリピリしていることの方が多いし、接客をして家に戻るとどっと疲れが押し寄せてくる。 その時に美しくダークな世界の事を考えると、心が癒され一日の疲れが飛んで、新しいものを生み出そうという気になる。 この世の中で生きていくためにあえて明るくふるまうなんて表面的だけでいいと思う。 心の奥底でダークなものが好きでもそれは変ではないし、死に憧れ、血液に欲情したって、痛みに生きる意味を見出しても別にいいと思う。 周りの人が心配するなら心配させておけばいいし、自分を変える必要はない。 自分を変えたストレスで押しつぶされて創造力の欠片もない人間だけになるのはまっぴらだ。 だけど本当に誰かに助けを求めてリストカットとかしている子がいるのなら、それは自分から声に出さないと周りは助けてはくれない。 追い詰められて自殺を考えているのなら、声に出さないと周りは気付かない。 そういう人間たちはもともと死に囚われていなかった人間だと思うし、救出されたら別の世界に行ってしまうんだと思う。 私とは違う世界の人間だ。 そういう人間たちこそ、助けてあげて欲しい。 殆どの自殺方法は突発的で、うまくいけば死んでしまう。 しかし緩やかな自殺方法も存在する。 摂食障害である。 緩やかかつ確実なその自殺方法は、私の周りの二人の命を奪った。 私も病的ではなかったけれど、吐いたりチューイングをしたり、とにかく痩せようとしていた時期はあった。 本人はやめようとしているのだけれど、止められない場合が多い。 気付いた時には取り返しのつかない場合になってしまっている事が殆どだ。 チューイングを始めると、食べ物が呑み込めなくなってしまう。 飲み込むことがいけない事のような気がして、飲み込めなくなってしまう。 欲望に負けて胃袋にありったけ詰め込んだ後バスルームに駆け込んで吐き出した食べ物。 ドキュメンタリーで歯がボロボロになった女性を見て、やめた。 そこでやめれたら、まだ大丈夫だ。 それでも、わかっていてもやめれない、それは病的だ。 傍観者も見て見ぬふりして自殺に加担するのか、引きずってでも病院に連れていくか。 でも手遅れになってしまうこともある。 心臓に負担が来ていたりすることもある。 なぜ「摂食障害」をするのか?なぜ食べないのか?なぜ吐き出すのか?なぜ痩せたいのか?ただ単に達成感に憑りつかれているのかもしれない。 目に見えて体重が減っていく喜び、入らなかった服が入る喜び、周りの人にちょっと痩せた?と言われた喜び。 そんな変な達成感や、認められたという喜びが拍車をかけて別の次元へと誘う。 しかし、もっと奥深い場所にあるのは母親との関係というが、それも基本的に母親に認められたい、という事かもしれない。 母親の子宮という暖かいゆりかごの中で私たちは揺られながら、約十月を過ごす。 その時の母親の行動が子供たちに影響するのだろうか?それとも生まれた後の母親の接し方が子供達に影響を与えるのだろうか? 私は小さい頃母に、本当は私が生まれる前にもう一人赤ちゃんが生まれるはずだったんだと言われ、その生まれてくるはずだった私の兄か姉になるはずだった魂を想い、いろいろ想像してみたりした。 母の子宮のゆりかごに私よりも先に揺られていた存在は、世界に認められる前に消えてしまった。 母に少しの傷を残して、その腕に抱きしめられることもなく名前も性別もないまま消えてしまった。 私はその存在よりも長けているだろうか?その赤ちゃんが生まれていたら、私は生まれていなかったのかもしれない。 私なんか存在しなかった方がよかった。 そんな事を考えた。 でも誰にも言わなかった。 それは私とその認められなかった魂たちの秘密の考えで、決して誰にも知られてはいけないのだ。 母は何事もなかったように物事を淡々と話すけれど、感情というものがあるのかしら?ヒステリックに怒鳴り散らすけれど、悲しみや喜び、絶望的なことや良心の呵責を彼女は感じているのかしら?子供ながらにそういう風に考えるほど、私の母はエイリアンや魔女のような存在だった。 何かにつけて私は彼女を怒らせた。 彼女と二人きりになる事が怖かったし、彼女に捨てられる事はもっと恐怖だった。 母に捨てられるなら、自分で自分を捨ててしまえばいい、母に捨てられるよりも先に、自分からいなくなってしまえばいい。 そんな事を考えながら大きくなった。 私がお母さんを捨てればいいんだ。 私に捨てられた想像上の母親はやけに小さく、寂しそうだった。 しかし現実の母親は私が去った後も人生を存分に楽しみ悩みなんてないように見える。 私は最後まできっと母親に自分の胸のうちなんかを打ち明けられずに、どちらかが死んでしまうんだろうと思っている。 悩みがあっても、どんなにお金が必要でも、突然会いたくなっても、私は甘えられない。 躊躇してしまう。 また怒らせてしまうかもしれない、呆れられてしまうかもしれない、馬鹿にされるかもしれない。 それに私が知りたいことは、どんなに問い詰めても教えてもらえない。 秘密なんて、隠し事なんて馬鹿らしいのに、しなくていいのに、私が聞きたがるとあえて隠そうとしているかのようにはぐらかす。 いつも遠回りして馬鹿みたい。 私はただ答えが欲しいだけなのに、あなたの言葉で聞きたいだけなのに。 あなたは、何が怖いの? 妹と二人だけになった広い一軒家はある意味何も引きとめるものが無くて、私がお母さんを捨てる前にお母さんは私を捨てた。 新しい恋人の家に転がり込んだ母は週末だけ戻ってきた。 そして私にはお父さんのような人が出来て、お兄さんのような人もできた。 嫌悪する妹に対し、私はそういった類の感情があらかじめ欠如しているせいか、誰とでもうまくやっていった。 もちろん実の父は特別な存在だし、替えはきかないがその時すでに彼はこの世に存在していなかった。 父の愛人とうまくやれたのも、父が愛す人なら私も愛せると思ったからだ。 母の恋人とうまくやっていけたのは、ある意味エイリアンのようで偏屈な母とうまくやっていける人間がすごいと思ったし、その生活を覗いてみたかった。 ある程度その生活を覗き終わったら、私は死のうと思った。 どこか誰も私のこと知らない外国で死んでしまおうと思っていた。 残された人間には迷惑な話であろう。 もしかしたら、捜索願すら出されないかもしれない。 いつかふらりと戻ってくる、なんて風に考えられていたかもしれない。 それほどに私は周りの人間と連絡を取らない。 家族であってもだ。 その時私は死ななかったし、死ななかったからこうして生きて思いを綴っている。 それがたとえ誰の心も揺り動かす事が出来なかったとしても、私は生きている。 生きて呼吸をして、太陽の眩しさを時々嫌悪して、生きる事につらくなったり、漠然とした不安に苛まされることもある。 だけど、色々な死に方を想像して、どうやって死のうと考えていたあの頃の私も一緒に成長してくれた。 きれいごとなんて言うつもりはないけれど、あの時運よく心変わりしたせいなのかはわからないけれど、私はその死の願望さえも創造力に変えてしまった。 自殺は決して甘美なものではないけれど、想像の中で甘美であってもいいと思うし、その痛みや不安定でとりとめのない病んだ世界に憧れてしまう人間はいるはずだ。 死は決して美しくも、優しくもないかもしれないけれど、想像の中でなら夢にだってできる。 決してタブーにしてはいけないと思うし、生きている誰もが平等にいつかは死ぬのだから、私たちはもっと死に対して寛容になるべきだと思う。 戦争や事故で死ぬのは私も嫌だけれど、人間にはどうしようもなくなってしまった時に死ぬ権利があると思う。 本当に生きているだけでもつらい人間は存在しているし、病気で、死ぬよりもつらい苦痛や薬による意識の混濁を味わっている人間だっている。 もしその人が苦しみに耐えかねて死を選ぶなら、私は止める事は出来ない。 その人の痛みなんてその人しかわからないのだし、悩んだ果てに行きついた答えが死だったのなら、つらいけれど尊重してあげなければならないと思う。 私の死への対しての好奇心は、まだこの世で生きて吸収していく事や、好奇心の方が大きすぎて、薄れたままだ。 だけど死にたい、という漠然とした思いはまだ心の片隅にあって、常にゆらゆら正常と狂気を行ったり来たり。 突発的にやってくる自殺願望は自分の意思に結構反していると思うので、ちょっと怖い。 まだ死にたくないのに、私の中の狂気が私を殺してしまうとき、それは自殺でなくて殺人だと思う。 私は誰も殺したくはない。 前置きが長くなりましたが、リリー・コリンズ主演の「To The Bone」面白かった。 特に「Hi! I'm Lucas, like mucus. 」って所が。 キアヌ・リーブスがドクター役でいい味出してました。 摂食障害で悩んでいる方や、当事者ではないけれど周りにそういう人がいる、っていう人にぜひ観て欲しい。 摂食障害ほど緩やかで確実な自殺方法はないだろうし、気付いたら手遅れになっていたというケースは多々あるので、手遅れになる前に助けてと叫んでほしいし、手を差し伸べて欲しい。

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楽で確実な自殺方法を教えて下さい

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写真を本格的に撮り始めてから、10年以上あたため続けてきたテーマがある。 Fragments of Suicides 「自殺の断片」。 それぞれの自殺方法をモチーフに写真と共に物語や詩なんかを綴っている。 さくらももこが骨折の三角巾や鼻血に憧れたように、私は幼い頃から死や精神病に甘美な憧れを抱いていた。 そういうダークなものに惹かれ、そういう世界に浸る子供だった。 死のうと本気で考えるような悲しみもあったし、死んだあとどうなるか見てみたい、という好奇心もあった。 死ぬことも、死なないことも、私にとっては生きる事だった。 生きていればその美しい悲しみと寂しさ、そして未知の世界を追求できる。 死んでしまえばその後を知る事は出来るが、それでおしまいだ。 おしまいにしてしまうには惜しい気がした。 しかし突発的自殺未遂は三度ほどしてしまったし、今ここにいてこの物語を綴る事が出来ているのは、あの時死ななかったからだ。 多くの自殺は突発的で事故的なものだろうと私は考える。 それで死んでしまうか、生きながらえるか、だ。 運良く生きてしまえば、それきり自殺をしない人もいるだろうし、何度も繰り返してしまう人もいる。 追い詰められてどうしようもなく死を選んでしまう人は、本当は死にたくなかったのかもしれないし、死んでいなかったらいい未来が待っていたのかもしれない。 きれいごとを言ってしまえば、それだけのものになってしまう。 私はきれいごとなんて言いたくないし、結婚して、子供がいて、それなりに不自由のない暮らしをしているけれど、常に死への憧れや突然襲ってくる死ななくては、の発作はいまだにある。 無理をして明るく楽しい未来!なんて馬鹿げた絵空事に夢見るよりも、私はダークで甘美な死や精神病の世界に浸っていたいし、苦悩や逆境は私にとって生きる原動力であり、創造性を奮い立たせる。 プライベートではムスッとしてピリピリしていることの方が多いし、接客をして家に戻るとどっと疲れが押し寄せてくる。 その時に美しくダークな世界の事を考えると、心が癒され一日の疲れが飛んで、新しいものを生み出そうという気になる。 この世の中で生きていくためにあえて明るくふるまうなんて表面的だけでいいと思う。 心の奥底でダークなものが好きでもそれは変ではないし、死に憧れ、血液に欲情したって、痛みに生きる意味を見出しても別にいいと思う。 周りの人が心配するなら心配させておけばいいし、自分を変える必要はない。 自分を変えたストレスで押しつぶされて創造力の欠片もない人間だけになるのはまっぴらだ。 だけど本当に誰かに助けを求めてリストカットとかしている子がいるのなら、それは自分から声に出さないと周りは助けてはくれない。 追い詰められて自殺を考えているのなら、声に出さないと周りは気付かない。 そういう人間たちはもともと死に囚われていなかった人間だと思うし、救出されたら別の世界に行ってしまうんだと思う。 私とは違う世界の人間だ。 そういう人間たちこそ、助けてあげて欲しい。 殆どの自殺方法は突発的で、うまくいけば死んでしまう。 しかし緩やかな自殺方法も存在する。 摂食障害である。 緩やかかつ確実なその自殺方法は、私の周りの二人の命を奪った。 私も病的ではなかったけれど、吐いたりチューイングをしたり、とにかく痩せようとしていた時期はあった。 本人はやめようとしているのだけれど、止められない場合が多い。 気付いた時には取り返しのつかない場合になってしまっている事が殆どだ。 チューイングを始めると、食べ物が呑み込めなくなってしまう。 飲み込むことがいけない事のような気がして、飲み込めなくなってしまう。 欲望に負けて胃袋にありったけ詰め込んだ後バスルームに駆け込んで吐き出した食べ物。 ドキュメンタリーで歯がボロボロになった女性を見て、やめた。 そこでやめれたら、まだ大丈夫だ。 それでも、わかっていてもやめれない、それは病的だ。 傍観者も見て見ぬふりして自殺に加担するのか、引きずってでも病院に連れていくか。 でも手遅れになってしまうこともある。 心臓に負担が来ていたりすることもある。 なぜ「摂食障害」をするのか?なぜ食べないのか?なぜ吐き出すのか?なぜ痩せたいのか?ただ単に達成感に憑りつかれているのかもしれない。 目に見えて体重が減っていく喜び、入らなかった服が入る喜び、周りの人にちょっと痩せた?と言われた喜び。 そんな変な達成感や、認められたという喜びが拍車をかけて別の次元へと誘う。 しかし、もっと奥深い場所にあるのは母親との関係というが、それも基本的に母親に認められたい、という事かもしれない。 母親の子宮という暖かいゆりかごの中で私たちは揺られながら、約十月を過ごす。 その時の母親の行動が子供たちに影響するのだろうか?それとも生まれた後の母親の接し方が子供達に影響を与えるのだろうか? 私は小さい頃母に、本当は私が生まれる前にもう一人赤ちゃんが生まれるはずだったんだと言われ、その生まれてくるはずだった私の兄か姉になるはずだった魂を想い、いろいろ想像してみたりした。 母の子宮のゆりかごに私よりも先に揺られていた存在は、世界に認められる前に消えてしまった。 母に少しの傷を残して、その腕に抱きしめられることもなく名前も性別もないまま消えてしまった。 私はその存在よりも長けているだろうか?その赤ちゃんが生まれていたら、私は生まれていなかったのかもしれない。 私なんか存在しなかった方がよかった。 そんな事を考えた。 でも誰にも言わなかった。 それは私とその認められなかった魂たちの秘密の考えで、決して誰にも知られてはいけないのだ。 母は何事もなかったように物事を淡々と話すけれど、感情というものがあるのかしら?ヒステリックに怒鳴り散らすけれど、悲しみや喜び、絶望的なことや良心の呵責を彼女は感じているのかしら?子供ながらにそういう風に考えるほど、私の母はエイリアンや魔女のような存在だった。 何かにつけて私は彼女を怒らせた。 彼女と二人きりになる事が怖かったし、彼女に捨てられる事はもっと恐怖だった。 母に捨てられるなら、自分で自分を捨ててしまえばいい、母に捨てられるよりも先に、自分からいなくなってしまえばいい。 そんな事を考えながら大きくなった。 私がお母さんを捨てればいいんだ。 私に捨てられた想像上の母親はやけに小さく、寂しそうだった。 しかし現実の母親は私が去った後も人生を存分に楽しみ悩みなんてないように見える。 私は最後まできっと母親に自分の胸のうちなんかを打ち明けられずに、どちらかが死んでしまうんだろうと思っている。 悩みがあっても、どんなにお金が必要でも、突然会いたくなっても、私は甘えられない。 躊躇してしまう。 また怒らせてしまうかもしれない、呆れられてしまうかもしれない、馬鹿にされるかもしれない。 それに私が知りたいことは、どんなに問い詰めても教えてもらえない。 秘密なんて、隠し事なんて馬鹿らしいのに、しなくていいのに、私が聞きたがるとあえて隠そうとしているかのようにはぐらかす。 いつも遠回りして馬鹿みたい。 私はただ答えが欲しいだけなのに、あなたの言葉で聞きたいだけなのに。 あなたは、何が怖いの? 妹と二人だけになった広い一軒家はある意味何も引きとめるものが無くて、私がお母さんを捨てる前にお母さんは私を捨てた。 新しい恋人の家に転がり込んだ母は週末だけ戻ってきた。 そして私にはお父さんのような人が出来て、お兄さんのような人もできた。 嫌悪する妹に対し、私はそういった類の感情があらかじめ欠如しているせいか、誰とでもうまくやっていった。 もちろん実の父は特別な存在だし、替えはきかないがその時すでに彼はこの世に存在していなかった。 父の愛人とうまくやれたのも、父が愛す人なら私も愛せると思ったからだ。 母の恋人とうまくやっていけたのは、ある意味エイリアンのようで偏屈な母とうまくやっていける人間がすごいと思ったし、その生活を覗いてみたかった。 ある程度その生活を覗き終わったら、私は死のうと思った。 どこか誰も私のこと知らない外国で死んでしまおうと思っていた。 残された人間には迷惑な話であろう。 もしかしたら、捜索願すら出されないかもしれない。 いつかふらりと戻ってくる、なんて風に考えられていたかもしれない。 それほどに私は周りの人間と連絡を取らない。 家族であってもだ。 その時私は死ななかったし、死ななかったからこうして生きて思いを綴っている。 それがたとえ誰の心も揺り動かす事が出来なかったとしても、私は生きている。 生きて呼吸をして、太陽の眩しさを時々嫌悪して、生きる事につらくなったり、漠然とした不安に苛まされることもある。 だけど、色々な死に方を想像して、どうやって死のうと考えていたあの頃の私も一緒に成長してくれた。 きれいごとなんて言うつもりはないけれど、あの時運よく心変わりしたせいなのかはわからないけれど、私はその死の願望さえも創造力に変えてしまった。 自殺は決して甘美なものではないけれど、想像の中で甘美であってもいいと思うし、その痛みや不安定でとりとめのない病んだ世界に憧れてしまう人間はいるはずだ。 死は決して美しくも、優しくもないかもしれないけれど、想像の中でなら夢にだってできる。 決してタブーにしてはいけないと思うし、生きている誰もが平等にいつかは死ぬのだから、私たちはもっと死に対して寛容になるべきだと思う。 戦争や事故で死ぬのは私も嫌だけれど、人間にはどうしようもなくなってしまった時に死ぬ権利があると思う。 本当に生きているだけでもつらい人間は存在しているし、病気で、死ぬよりもつらい苦痛や薬による意識の混濁を味わっている人間だっている。 もしその人が苦しみに耐えかねて死を選ぶなら、私は止める事は出来ない。 その人の痛みなんてその人しかわからないのだし、悩んだ果てに行きついた答えが死だったのなら、つらいけれど尊重してあげなければならないと思う。 私の死への対しての好奇心は、まだこの世で生きて吸収していく事や、好奇心の方が大きすぎて、薄れたままだ。 だけど死にたい、という漠然とした思いはまだ心の片隅にあって、常にゆらゆら正常と狂気を行ったり来たり。 突発的にやってくる自殺願望は自分の意思に結構反していると思うので、ちょっと怖い。 まだ死にたくないのに、私の中の狂気が私を殺してしまうとき、それは自殺でなくて殺人だと思う。 私は誰も殺したくはない。 前置きが長くなりましたが、リリー・コリンズ主演の「To The Bone」面白かった。 特に「Hi! I'm Lucas, like mucus. 」って所が。 キアヌ・リーブスがドクター役でいい味出してました。 摂食障害で悩んでいる方や、当事者ではないけれど周りにそういう人がいる、っていう人にぜひ観て欲しい。 摂食障害ほど緩やかで確実な自殺方法はないだろうし、気付いたら手遅れになっていたというケースは多々あるので、手遅れになる前に助けてと叫んでほしいし、手を差し伸べて欲しい。

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