神戸 山口組 組織 図。 【日本三大暴力団組織】山口組

神戸山口組総本部・組織図 2020【最新】

神戸 山口組 組織 図

そのなかで、かつて絶縁や破門になった伝説のヤクザたちが続々と復帰しようとしていた。 なかでも注目されるのが、神戸山口組に参加すると話題になっている三島組三島敬一元組長だ。 警察関係者は次のように話す。 「三島元組長は、山健組傘下の健竜会の最高顧問だった。 五代目山口組渡辺芳則組長が立ち上げた健竜会は名門で、神戸山口組の井上邦雄組長は四代目会長を務めていた。 三島元組長は渡辺五代目、また中野会の中野太郎会長(宅見組宅見勝組長の射殺事件で絶縁処分)とも兄弟分だったとされる超大物ヤクザ。 長く大阪市西成区の覚醒剤売買を取り仕切っていたが、山口組に司忍六代目が就任後、『山口組で禁じているシャブを扱った』として絶縁処分を受け、熊本に戻っていた」 ほかにも注目される神戸山口組の復帰組がいる。 三島元組長と同じ健竜会で元三代目会長を務め、山健組若頭補佐だった山本一廣元会長だ。 「7日に山口組の幹部が東京の板橋区にある住吉会系幸平一家の本部事務所を訪問したが、その際に山本一廣元会長の姿があって、われわれマスコミは驚きました。 復帰したことは知らなかった」(ヤクザ界に詳しいジャーナリスト) 山本元会長は、幸平一家の加藤英幸総長と兄弟分といわれる。 井上組長の先代の健竜会会長として山健組を支えた有力幹部だったが、司六代目体制下で山口組を追われていた。 今回、神戸山口組に合流し、山健組の舎弟頭補佐に就任。 山口組を追われた元山健組幹部の復帰は神戸山口組の作戦だという。 「山口組六代目に就任した司組長は、五代目の出身母体である山健組の力を削ぐために、多くの山健組有力幹部を追放してきた。 神戸山口組側はそのときに処分を受けた人間を戻すことで、司組長の行為の不当性をアピールできる。 この流れは今後も続くだろう」(前同) 「伝説のヤクザ」まで飛び出した仁義なき引き抜き抗争。 次なる秘密兵器が、拳銃やナイフでないことを祈るばかりだ。 27 創立100周年目の山口組に起きた「別れ」という離脱分裂劇。 マスコミ等では分裂理由を、主に会費の高騰、と紹介しているが、血で血を洗いながら100年間も続いた組織の分裂理由はそんな単純なものではない。 「11年前に戻っただけや」 分裂理由の真相を知る幹部たちは残念顔でこう言った。 山口組は11年前から神戸一派と名古屋一派との間で確執が生じていた。 脈々と沸々と続いていたものがこの度遂に分裂というかたちで表面化したのである。 六代目山口組の分裂劇とは一体何なのか? 山口組に詳しい藤原良氏に解説してもらった。 影で動く大物OBたち ついに、神戸山口組が六代目山口組の組員数を上回った。 離脱分裂当初は神戸山口組は六代目山口組の組員数の約半分程度であったが、離脱分裂から2ヶ月が過ぎた現在では、神戸山口組の組員数は急増し、六代目山口組の組員数は減少傾向にある。 これは、ヤクザ暴力団業界の中で六代目山口組の名古屋主義に嫌気がさしている組員が多いという事を意味しているだろう。 六代目山口組内では「(現在、服役中の)高山若頭がいたらこうはならなかった」という声とともに六代目山口組統括委員長と舎弟頭に対して「お前がしっかりしていないからこうなった」という叱咤叱責が飛び交っている。 神戸山口組の急増については、その方針に共鳴する人たちの拡大もあるが、神戸山口組の影の協力者の存在と影響も大きい。 分裂以前の六代目山口組内における名古屋支配管理体制が全盛だった頃、名古屋一派は神戸一派に対して執拗かつ強圧的に人員の切り崩しを続け、功労者やベテランクラスや様々な生き証人たちを除籍、絶縁、破門、引退へと追いやっていった。 彼らのひとりひとりがミスター山口組であり、まさに山口組の個性そのものであったが、名古屋一派はまるで急速な世代交代と新時代の到来とばかりに切り崩し、人員処分という組織改革を強引に行った。 その結果、様々な確執と因縁を発生した。 現在の六代目山口組にはもうケンカが出来るヤクザはいないとまで言われている。 その手の人たちのほとんどが名古屋支配管理体制時代に粛清されたからである。 そういった、不本意に山口組から追い払われた方々は、神戸一派の応援者となり、やがて、神戸山口組の影の協力者となった。 「ヤクザは肩書きではない」という言葉がある。 神戸山口組の影の協力者たちは、別に、山口組を追いやられて肩書きを失った事に対する恨みつらみで活動しているわけではない。 あくまでも「山口組を離れた今でも、やるべき事はやらなければならない」という一念で歩んでいる。 繰り返すが、ヤクザは肩書きではない。 生き様なのである。 起死回生の一手はあるか? とはいえ、いったん渡世を離れたら、渡世事はすべて消えてなくなるというケジメもある。 しかし、一口に盃といっても、いろいろな種類のものがある。 例えば、兄弟分の盃で言えば、割り盃というものがある。 これは盃を交わした段階で盃を割り、何があってももう元 =盃事の前の段階 に戻すことはしない、という意味が込められている。 はっきり言えば、兄弟分が絶縁になろうが破門になろうがどうなろうが、割り盃を交わしたらずっと兄弟分なのである。 そして繰り返すが、ヤクザは肩書きではなく、生き様である。 ヤクザ組織という物はそもそも縁ある人々の任侠集団である。 たとえゴロツキと呼ばれてもそもそもは任侠道の名のもとに縁した者が集まっている。 ヤクザ組織に就職制度等はない。 軍隊でもマフィア組織でもない。 現在の六代目山口組内では、組長交代という声も密かに囁かれている。 その話が、現在の六代目山口組組員たちの声を反映した交代案なのか、離脱分裂騒動により崩れた名古屋支配管理体制を再構築再強化するための秘策なのかは定かではないが、どちらかと言えば苦境に立たされているのは六代目山口組のほうなのかも知れない。 取材/文=藤原良 参照元 : 健竜会 五代目健竜会(けんりゅうかい)は兵庫県神戸市中央区中山手通2-22-3に本部を置き兵庫県神戸市中央区中山手通6-3-18に本家を置く暴力団で、神戸山口組の三次団体。 上部団体は四代目山健組。 111• 305• 178• 377• 291• 167• 149•

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【山口組の組織図】六代目や神戸山口組、弘道会などヤクザ最新組織図まとめ

神戸 山口組 組織 図

そのなかで、かつて絶縁や破門になった伝説のヤクザたちが続々と復帰しようとしていた。 なかでも注目されるのが、神戸山口組に参加すると話題になっている三島組三島敬一元組長だ。 警察関係者は次のように話す。 「三島元組長は、山健組傘下の健竜会の最高顧問だった。 五代目山口組渡辺芳則組長が立ち上げた健竜会は名門で、神戸山口組の井上邦雄組長は四代目会長を務めていた。 三島元組長は渡辺五代目、また中野会の中野太郎会長(宅見組宅見勝組長の射殺事件で絶縁処分)とも兄弟分だったとされる超大物ヤクザ。 長く大阪市西成区の覚醒剤売買を取り仕切っていたが、山口組に司忍六代目が就任後、『山口組で禁じているシャブを扱った』として絶縁処分を受け、熊本に戻っていた」 ほかにも注目される神戸山口組の復帰組がいる。 三島元組長と同じ健竜会で元三代目会長を務め、山健組若頭補佐だった山本一廣元会長だ。 「7日に山口組の幹部が東京の板橋区にある住吉会系幸平一家の本部事務所を訪問したが、その際に山本一廣元会長の姿があって、われわれマスコミは驚きました。 復帰したことは知らなかった」(ヤクザ界に詳しいジャーナリスト) 山本元会長は、幸平一家の加藤英幸総長と兄弟分といわれる。 井上組長の先代の健竜会会長として山健組を支えた有力幹部だったが、司六代目体制下で山口組を追われていた。 今回、神戸山口組に合流し、山健組の舎弟頭補佐に就任。 山口組を追われた元山健組幹部の復帰は神戸山口組の作戦だという。 「山口組六代目に就任した司組長は、五代目の出身母体である山健組の力を削ぐために、多くの山健組有力幹部を追放してきた。 神戸山口組側はそのときに処分を受けた人間を戻すことで、司組長の行為の不当性をアピールできる。 この流れは今後も続くだろう」(前同) 「伝説のヤクザ」まで飛び出した仁義なき引き抜き抗争。 次なる秘密兵器が、拳銃やナイフでないことを祈るばかりだ。 27 創立100周年目の山口組に起きた「別れ」という離脱分裂劇。 マスコミ等では分裂理由を、主に会費の高騰、と紹介しているが、血で血を洗いながら100年間も続いた組織の分裂理由はそんな単純なものではない。 「11年前に戻っただけや」 分裂理由の真相を知る幹部たちは残念顔でこう言った。 山口組は11年前から神戸一派と名古屋一派との間で確執が生じていた。 脈々と沸々と続いていたものがこの度遂に分裂というかたちで表面化したのである。 六代目山口組の分裂劇とは一体何なのか? 山口組に詳しい藤原良氏に解説してもらった。 影で動く大物OBたち ついに、神戸山口組が六代目山口組の組員数を上回った。 離脱分裂当初は神戸山口組は六代目山口組の組員数の約半分程度であったが、離脱分裂から2ヶ月が過ぎた現在では、神戸山口組の組員数は急増し、六代目山口組の組員数は減少傾向にある。 これは、ヤクザ暴力団業界の中で六代目山口組の名古屋主義に嫌気がさしている組員が多いという事を意味しているだろう。 六代目山口組内では「(現在、服役中の)高山若頭がいたらこうはならなかった」という声とともに六代目山口組統括委員長と舎弟頭に対して「お前がしっかりしていないからこうなった」という叱咤叱責が飛び交っている。 神戸山口組の急増については、その方針に共鳴する人たちの拡大もあるが、神戸山口組の影の協力者の存在と影響も大きい。 分裂以前の六代目山口組内における名古屋支配管理体制が全盛だった頃、名古屋一派は神戸一派に対して執拗かつ強圧的に人員の切り崩しを続け、功労者やベテランクラスや様々な生き証人たちを除籍、絶縁、破門、引退へと追いやっていった。 彼らのひとりひとりがミスター山口組であり、まさに山口組の個性そのものであったが、名古屋一派はまるで急速な世代交代と新時代の到来とばかりに切り崩し、人員処分という組織改革を強引に行った。 その結果、様々な確執と因縁を発生した。 現在の六代目山口組にはもうケンカが出来るヤクザはいないとまで言われている。 その手の人たちのほとんどが名古屋支配管理体制時代に粛清されたからである。 そういった、不本意に山口組から追い払われた方々は、神戸一派の応援者となり、やがて、神戸山口組の影の協力者となった。 「ヤクザは肩書きではない」という言葉がある。 神戸山口組の影の協力者たちは、別に、山口組を追いやられて肩書きを失った事に対する恨みつらみで活動しているわけではない。 あくまでも「山口組を離れた今でも、やるべき事はやらなければならない」という一念で歩んでいる。 繰り返すが、ヤクザは肩書きではない。 生き様なのである。 起死回生の一手はあるか? とはいえ、いったん渡世を離れたら、渡世事はすべて消えてなくなるというケジメもある。 しかし、一口に盃といっても、いろいろな種類のものがある。 例えば、兄弟分の盃で言えば、割り盃というものがある。 これは盃を交わした段階で盃を割り、何があってももう元 =盃事の前の段階 に戻すことはしない、という意味が込められている。 はっきり言えば、兄弟分が絶縁になろうが破門になろうがどうなろうが、割り盃を交わしたらずっと兄弟分なのである。 そして繰り返すが、ヤクザは肩書きではなく、生き様である。 ヤクザ組織という物はそもそも縁ある人々の任侠集団である。 たとえゴロツキと呼ばれてもそもそもは任侠道の名のもとに縁した者が集まっている。 ヤクザ組織に就職制度等はない。 軍隊でもマフィア組織でもない。 現在の六代目山口組内では、組長交代という声も密かに囁かれている。 その話が、現在の六代目山口組組員たちの声を反映した交代案なのか、離脱分裂騒動により崩れた名古屋支配管理体制を再構築再強化するための秘策なのかは定かではないが、どちらかと言えば苦境に立たされているのは六代目山口組のほうなのかも知れない。 取材/文=藤原良 参照元 : 健竜会 五代目健竜会(けんりゅうかい)は兵庫県神戸市中央区中山手通2-22-3に本部を置き兵庫県神戸市中央区中山手通6-3-18に本家を置く暴力団で、神戸山口組の三次団体。 上部団体は四代目山健組。 111• 305• 178• 377• 291• 167• 149•

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神戸山口組 最新組織図

神戸 山口組 組織 図

山口組(やまぐちぐみ)は、兵庫県神戸市に本部を置く暴力団で、日本最大規模の指定暴力団。 その構成員数は2010年の時点で約20,300人、準構成員数は約16,100人の合計約36,400人であり、その人数は全暴力団構成員・準構成員数約85,200人のうちの46. 組員は同年の時点で1名の組長(親分)、7名の舎弟(弟分)、79名の若中(子分)から成る計87人。 組長を除き、これら86名の舎弟と若中は直参(直系組長)と呼ばれ、それぞれが数十人から数千人の構成員を抱える組織の首領となっている。 その大嶋組を率いた大嶋秀吉の主従関係を上位に辿ればやがては九州筑豊の吉田磯吉に行き着いた。 1915年(大正4年)のことであった。 しばらくは大嶋組の傘下にあって活動したものの、いつしかその勢力は本家の大嶋組を凌ぐものとなり、1925年における山口登の二代目襲名を経て、神戸中央卸売市場の開設に伴う利権を巡り大嶋組と対立。 死者を伴う激しい抗争の末に同卸売市場の運搬作業の独占権を得るに至り、1932年をもって大嶋組から独立した。 この田岡率いる三代目体制下にあって、昭和30年代〔1955〜1964〕から昭和40年代〔1965〜1974〕にかけて全国各地へ進出、対立抗争を繰り返しながら急速に勢力を拡大していった 田岡襲名時の山口組の総勢はわずか33人に過ぎないものであった。 それが1965年までに、傘下424団体、総勢9450名を数える巨大組織に発展。 その間に当事者となった対立抗争は日本の各地を舞台としたもので、小松島抗争、明友会抗争、鳥取抗争、博多事件、広島代理戦争、松山抗争などが主要なそれであった。 警察当局によるいわゆる『第一次頂上作戦』のさなかで直系組長らの脱退と直系組織の解散が相次ぐに至り、一時期弱体化するも、勢力の回復を経て、田岡の死去の前年にあたる1980年までに、2府33県に559団体、1万1800人余の総勢を擁する組織に成長。 そうした三代目体制期を築いた田岡は山口組の中興の祖として記憶されるに至った。 その過程で抗争相手の一和会により暗殺された竹中に代わって、抗争が終結するに至った平成元年〔1988〜1989〕、傘下山健組を率いた渡辺芳則を首領に据える五代目体制が発足。 1997年になると五代目体制開始以来の非常事態と言われた宅見若頭射殺事件が発生。 この事件は以後の組織に混迷をもたらす未解決の懸案となった。 2004年から長期休養に入るとともに組織運営の全権を執行部へと委譲していた渡辺であったが、2005年の7月に引退を表明。 予期なき突然の引退であった。 ここに16年間の長きにわたった五代目体制が終焉。 そして若頭の役にあった司忍の新たな襲名をもって、同年のうちに六代目体制が発足し現在に至っている。 田岡三代目時代に制定された5条からなる「綱領」が、定例会など行事の際には唱和される。 一、内を固むるに和親合一を最も尊ぶ。 一、外は接するに愛念を持し、信義を重んず。 一、長幼の序を弁え礼に終始す。 一、世に処するに己の節を守り譏を招かず。 一、先人の経験を聞き人格の向上をはかる。 加えて年度ごとに定められる「組指針」がある。 六代目体制発足以降「警察官と接触しない」、「警察機関に人、物を出さない」、「警察官を組事務所に入れさせない」の三点を定め警察との距離を置いている。 「山口組を含めて、六代目の体制になってからは警察に速やかに入り、調べてもらいなさいという姿勢をとっている。 昔はどったんばったんやったりして殴られたりもしたが」 と記者の質問に答えており、警察との関わりに変化が見られる。 いわゆる不良外国人との付き合いや、違法薬物の取り扱いなども公式に禁止している。 山口組における『若頭』は、『組長』に次ぐナンバー2の役職にあたる。

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