フランク ブラングィン。 フランク・ブラングィンとは

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フランク ブラングィン

先日、上野・ 国立西洋美術館の、を観て来ました 画家、壁面装飾家、工芸デザイナー、建築・空間デザイナー、版画家、コレクター。 多彩な顔持つ、ベルギー生まれ・英国を代表するアーティスト、 フランク・ブラングィン。 西洋美術館の礎となったのは、美術品の蒐集家、川崎造船所(現・川崎重工業)の初代社長、 松方幸次郎が1910年代後半から20年代にかけて集めた美術品なんだそうです。 この大コレクターを支え、助け、友情を築いたのが、英国人画家、 フランク・ブラングィン。 美しい家具や、店内装飾、建築など、多種多様な展示品に、飽きる事がありません。 一見の価値あり 見ごたえと迫力のある美術展でした。 西洋美術館の 常設展も、同じチケットでじっくり観ることが出来ます。 特に、素描を集めたコーナーにあった、敬愛する ギュスターヴ・モローの絵に釘付け タイトルは、 「聖なる象」 なんて繊細で、神秘的で、美しいのでしょう! 《聖なる象》解説 モローの生前に、一度展覧会に出された後ずっと姿を見せることのなかった幻の水彩画。 象が静かに水辺を歩み、その背には東洋風の衣装を身に纏った女性が横たわっている。 女性の回りには彼女を囲み礼讃するかのように有翼の人物が4人、宙を舞っている。 モローはこの作品の準備デッサンに「ペリ」という書き込みをしており、中央の女性が ペリ、 すなわち ペルシアの妖精であることが分かるが、具体的な説話などには関わりがないようだ。 モローは断片化されたイメージによって、見る者をひたすら東洋の夢幻へと誘うような、 きらびやかな画面を作り出すのに成功している。 お世話になっている、セラピストの村上先生が、 「数秘を自在に操る人の中には、ペルシャ系のルーツの人が多い」と言っていて、 ホントかどうかは解りませんが、この絵の雰囲気が、遠い郷愁を誘うのかもしれませんね。 アートショップで衝動買いした、 モローが特集されている雑誌の中に、 茂木健一郎さんのエッセイが載っていて、その記事が凄く面白かった 茂木さんと、 河合隼雄先生との会話などが書かれていて、 これからの 夢の勉強に役立つヒントが拾えたり、ワクワクしっぱなし 興奮の一日でした フランク・ブラングィン展 国立西洋美術館にて 5月30日まで.

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茜画廊

フランク ブラングィン

1889年イェール大の学友と(中列左) (慶応元年)士・の三男として鹿児島に生まれる。 (明治8年)、明治政府高官に就いた父・正義の住む東京に移り、翌年に海軍との関係が強かった(現・)幼年科に入塾。 (明治11年)に同中年科に進学。 さらに共立学校(現・)で学び、1881年(明治14年)に(を経て現・)に入学した。 (明治16年)に東京大学の第一号と言われる「明治16年事件」に関わり、学位授与式をボイコットした。 これは学位授与式の運営方法を巡って、かねてからの学校側の学生に対する管理強化に学生の不満が爆発したものだった。 翌年(明治17年)に東京大学予備門を中退。 同年4月に渡米。 に入学の後、に転学。 を取得し、(明治23年)帰国。 (明治24年)組閣に伴い、父の首相秘書官となる。 一時、経営や官途についたが、(明治27年)に浪速火災保険の副社長に就任し関西における財活動を開始した。 政財界での躍進 [ ] (明治29年)創設者で、幸次郎の米国留学の費用を負担するなど公私に渡って関係の深かった同郷のに要請されて、株式会社初代社長に就任。 この時、川崎造船所は川崎正蔵の個人経営から改め株式会社として再スタートした。 それをきっかけとして、大阪舎密鉱業(1898年)、神戸瓦斯(同)、(1899年)、神戸桟橋(1908年)、(同)、九州土地信託(同)、(1920年)、(同)、神港倶楽部、ベルベット石鹸、日本ゴム蹄鉄の社長に就任し、その他11社の役員を務めた。 さらに会頭、(明治45年)にはに当選し代議士も務め、神戸の政財界の巨頭であった。 川崎造船所の躍進と挫折 [ ] 幸次郎が船頭に就いた川崎造船所は、川崎正蔵の計画していた乾の建設を皮切りに「攻めの経営」を展開し、折からの国家的規模の造船国産化の追い風もあり業績を順調に伸ばした。 また(明治27年)の、(明治33年)の、(明治37年)のの勃発により国家的規模で軍備強化が推進される中、のに労働者を派遣し造艦技術を学ばせ、また呉に近いには出張所を設け、との交流を深めて海軍からも造艦の受注を受けるようになった。 当初は小型艦艇の組み立てや修理を請け負ったが、やがて大型艦の造船も請け負い、川崎造船所は民間ではとならぶ造船会社にまで成長した。 (大正3年)が勃発。 本来、造船業は受注生産が基本だが、世界的な商船不足を予見した幸次郎は、受注前にあらかじめ船を大量生産する「ストックボート方式」を用いて莫大な利益を上げた。 しかし、(大正7年)に第一次世界大戦が終戦し、ヨーロッパの造船界が再稼働して世界の船舶需要が供給過多に転じたことにより、大量の在庫を抱えることになる。 また、(大正11年)の締結では軍縮による軍艦建造縮小の煽りを受け、さらに(昭和2年)のを決定打に川崎造船所は事実上の破綻を喫する。 幸次郎は不況の中でも積極策を続けたが、設立した商船会社も利益を生まなかった。 金融恐慌では多くの銀行がで休業に追い込まれ、川崎造船所に巨額の融資を行っていた兄のが頭取を務めるも1927年には休業を余儀なくされていた。 関係が強く、大口債権者であった軍部の支援によって川崎造船所の倒産は免れたものの、幸次郎は不況下で積極経営を強行した責任を取り、務めていた全ての会社の役員を辞任する。 その後は衆議院議員を(昭和11年)から連続3期務め、国民使節として渡米し国際的に活動した。 戦後、の推薦議員のためとなった。 追放中の1950年(昭和25年)死去。 コレクターとして [ ] 「」も参照 川崎造船所社長として隆盛を誇った期に、日本における本格的な西洋美術館の創設を目指しヨーロッパで買い集めた絵画、彫刻、浮世絵はの名で知られ、その一部はの母体となった。 第一次世界大戦中の(大正5年)、戦火の中で渡英した幸次郎はの戦意高揚ポスターに感銘を受ける。 幸次郎は本業の激務の合い間を縫ってブラングィンを訪れ、二人はたちまち意気投合した。 日本における本格的な西洋美術館の創設という幸次郎の壮大な悲願はブラングィンとの交流の中で芽生えた。 西洋美術館の設立計画はかなり具体化しており、幸次郎は・のに美術館建設用地を確保していた。 ブラングィンは幸次郎の計画をもとに製の建築模型を作っており、設立予定の美術館の「共楽美術館」という名前まで決められていた。 共楽美術館の名前にはコレクションを秘蔵せず、国民が等しく美術作品を楽しめるようにとの幸次郎の思いが込められていた。 第一次世界大戦後も幸次郎はヨーロッパに渡り、パリを中心に、、、らの作品を次々に購入し美術品収集を続けた。 なお、この時期は幸次郎が展開した川崎造船所の積極経営策に陰りが見え始めた時期と一致する。 の巨匠・を度々訪れ交流を深め、大量にモネの作品を購入している。 幸次郎はモネの画家人生の集大成と評される「」をモネ本人から直接購入している。 1916年(大正5年)から約10年間、幸次郎はたびたびヨーロッパを訪れては画廊に足を運び、絵画、彫刻から家具やタペストリーまで、膨大な数の美術品を買い集めた。 現在はが所蔵するの宝石商アンリ・ヴェヴェールから買い受けた約8,000点の浮世絵を含め、作品総数は1万点におよぶと言われている。 しかし、先述の川崎造船所の破綻によってコレクションは売り立てられ国内外に散逸。 作品の一部はの倉庫火災で焼失し、第二次世界大戦末期にはフランス政府に敵国人財産として取り上げられる運命を辿ることになる。 は、にフランス政府から寄贈(第二次世界大戦での対立の過去を背景に「返還」の形式は取られていない)されたの受け入れ機関として東京・に設立された。 間接的にではあるが、日本における本格的な西洋美術館の創設という幸次郎の壮大な悲願は、多くの悲劇や惨禍を乗り越え、紆余曲折を経て達成されたと言える。 栄典 [ ]• (大正5年) - エピソード [ ] 松方は思い切ったいたずらをする人物だった。 神戸にある川崎造船所の構内に海軍の監督官の事務所があって、そこからドックへ行くのに広い道路を横切らなければならないが、雨の日は道がひどくぬかるむ。 そこで海軍の監督官が道を横切る地下道を建設するように川崎造船所側に要求した。 川崎造船所は得意先の海軍の要望だからと、注文通り地下道を建設した。 そして松方はこの地下道に「海馬路」という名前をつけ、額にして入り口にかけて悦にいっていた。 海馬()というものは、海の上からくぐり、また海の上に出る。 地上からくぐってまた地上に出るのだから「海馬路」という説明なのだが、松方の思いつきはそうではなかったようで「海軍の馬鹿野郎の通る路」というつもりだったらしい。 そのうち海軍のほうでも感づいて馬鹿にしておると憤慨する者もいたという。 脚注 [ ] []• 攻玉社人物誌. 攻玉社学園. 2013年3月15日• 総理庁官房監査課編 『公職追放に関する覚書該当者名簿』 日比谷政経会、1949年、頁。 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。 『岡田啓介回顧録』 毎日新聞社 1950年12月25日 31p 関連項目 [ ]• - 「松方コンツェルン」とも呼ばれる• 外部リンク [ ]• - 川崎重工業• - にある松方の名を冠したホール 先代: - ()社長 初代:(~) 次代: 先代: - ()社長 初代:(~) 次代: 先代: 川崎芳太郎 社長 第2代:(~) 次代: 先代: 川崎芳太郎 社長 第2代:(~) 次代: 黒川新次郎.

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KIRIN~美の巨人たち~

フランク ブラングィン

2010年2月23日から上野の西洋美術館で開催の、「フランク・ブラングイン展」のために、WOODWORKでベンチを製作することになりました。 ブラングィンが描いた造船所や労働者をテーマとした力強い絵画に見せられた松方は、その主要作品を次々と購入し、ついには究極の夢である、コレクションを公開する「共楽美術館」の建築デザインをブラングィンに依頼します。 関東大震災後の経済危機により、美術館建設計画は実現しませんでした。 実現ずればブラングィンの作品が総合的に展覧されるはずでした。 ブラングィンはアーツ・アンド・クラフツ運動からアール・ヌーヴォー、アール・デコという同時代の装飾芸術運動を背景に、油彩画だけでなく、カーペット、家具、陶磁器、版画や挿画本にも製作範囲を広げ、当時を代表する画家として活躍しました。 この「フランク・ブラングィン展」は、国立西洋美術館開館50周年を記念し、「ブラングィンと松方のストーリー」を軸に、ブラングィン芸術を回顧する日本では初めての展覧会です。 松方のための共楽美術館のデザイン画のほか、散逸してしまった松方旧蔵のブラングィン作品も探し出し、松方によるブラングィン・コレクションを可能な限り再現します。 この展覧会最大の見どころの一つとして、会場の一角に共楽美術館を再現します。 もし共楽美術館が実現していたら松方が集めた本物の西洋絵画を、ブラングィンがデザインしたベンチで鑑賞していたであろう・・・そのベンチをWOODWORKが製作することになりました。 このベンチはご来場の皆さんが実際に座ってブラングインの作品を鑑賞できるように製作され、実現しなかった共楽美術館とブラングィンデザインを体感していただけるものです。 ベンチのもととなるのは1905年、ベネツィア国際博覧会(ビエンナーレ)で設置されたベンチです。 現在もベネツィア・ビエンナーレ会場で使われています。 ベンチの製作は鈴木が担当します。 ベネツィアに展示されているベンチから採寸した図面をもとに、ブラングィンデザインを再現します。 こんにちわ。 鈴木です。 このような機会をいただけたこと、大変嬉しく思います。 今回は作り手として、実際にブラングィンからお願いされた気持ちで 製作に取り組んでいきます。 実製作は年が明けてからブログで製作途中を随時ご紹介していきます。 楽しみにしていてください。

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