ベートーベン 肖像画 楽譜。 ベートーヴェンの肖像画: ケペル先生のブログ

ベートーヴェンとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

ベートーベン 肖像画 楽譜

ベートーベンはフリーで活躍した初めての音楽家 それまでの時代の作曲家は、もじゃもじゃとしたカツラを皆つけていました。 よく見る肖像画の髪型は、みなさん同じような髪型ですね。 ベートーベンは肖像画で初めてカツラを被っていない作曲家と言えます。 これにはしっかりとした意味があります。 当時の音楽家は宮廷や教会や貴族に仕えていました。 かつらは、宮廷などに仕えているから被っていたわけです。 しかし、ベートーベンは初めて音楽家としてフリーランスで仕事をしました。 だからベートーベンはカツラを被っていないのです。 また音楽家は、宮廷では裏口からしか入れないのがこれまでのしきたりでした。 音楽家は正面から入ることを許されていなかったのです。 しかし、ベートーベンは正面から堂々と入りました。 ベートーベンが音楽家の地位を一気に高めたのです。 CDの最大収録時間74分は第九から CDの最大収録時間は74分です。 この74分もベートーベンから来ていると言われています。 これは有名な話ですので、知っている方も多いと思います。 ベートーベンの交響曲第九番、通称「第九」の長さから74分の長さが決まったと言われています。 20世紀を代表する名指揮者であるカラヤンが第九を基準にしようと提案したということも、一説では言われています。 このベートーベンは第九の最後の交響曲でもあります。 第九を作ると死ぬ 数々の音楽家が恐れた迷信に 「第九を作ると死ぬ」 というものがあります。 その裏には2人の偉大な音楽家の死が関係しています。 それは、シューベルトもドボルザークです。 魔王で知られる「歌曲の王」であるシューベルトは、1828年に31歳の若さで亡くなりました。 「新世界より」で知られるチェコの巨匠のドボルザークは、1904年に62歳で亡くなりました。 時代も国も異なる2人の音楽家ですが、彼らに共通するものは「彼らの遺作が交響曲第九番」だったことです。 つまり第九が遺作なわけです。 オーストラリアのブルックナー、イギリスのヴォーン・ウィリアムズも第九を作曲した後に亡くなってしまってします。 とても気味の悪い話ですね。 他にも有名なエピソードとしてマーラーのエピソードもあります。 マーラーは19世紀末にウィーンで活躍した作曲家です。 マーラーは自分が第九を書くと死んでしまうという妄想にとらわれていました。 そして第九がなかなか書けませんでした。 マーラーは九番目の交響曲を結局は作るのですが、第九番とつけずに「大地の歌」という特別なタイトルをつけて第九を回避しました。 その後にマーラーは大地の歌の後に交響曲第九番を結局は作ってしまいます。 そして、十番を作っている途中に亡くなっています。 マーラーも第九番が遺作となってしまったのです。 第九が呪われていると言われるのにも納得がいくエピソードですね。 第九が年末に演奏される理由 日本で第九が初めて演奏されたのは、1918年6月1日です。 第一次世界大戦で捕虜となったドイツ人たちが徳島での捕虜収容所でおこなった演奏が最初と言われています。 しかし、現在のように第九が年末に頻繁に演奏されるようになったのはその30年後の第二次世界大戦後のことです。 そこには悲しい理由がありました。 第二次世界大戦の戦局悪化に伴い20歳以上の学生は戦場に送られました。 学徒出陣です。 その出兵直前の1943年12月に、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)で卒業式がありました。 出兵のため3月から12月へ繰り上げとなった卒業式です。 その時、器楽科も声楽家が合同で演奏するために選ばれた曲が第九だったのです。 その後戦争は終わり、生きて帰ってきた学徒たちで1947年12月30日に再び第九を演奏しました。 これは学徒出陣で命を落とした学生へのレクイエムだったと言われています。 これが年末に第九が頻繁に演奏される理由の一つだと言われています。 これはあくまで一説です。 もう一つ現実的な側面の説として、日本のオーケストラが資金調達の手段として第九を年末に演奏するということです。 第九は合唱でたくさんの人を必要とします。 アマチュアの合唱団と合同でコンサートをすれば、合唱団の家族や知人にチケットが売れ資金調達ができるというわけです。 ベートーベンだけでも面白い話がたくさんありますよね。 こぼれ話として、皆さんも周りの方に話してみてください!.

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ベートーヴェンの天才・変人エピソード集【不機嫌に描かれる真相】

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視聴者からの質問…「どうして音楽室には、肖像画があるんですか?理科室にガリレオはいないし、家庭科室に平野レミさんはいませんよね?」(チコちゃんが「しっかりオチまでつけてくれて…」と嬉しそうだ) チコちゃんが的場に(音楽室に飾ってあった肖像画に)誰がいたかを聞いた。 的場は「ヴェートーベンさん、シューベルトさん…」と答えると、チコちゃんに「そういう人たちが、音楽室に飾ってあるわね、何で?」と聞かれる。 的場は「…その人たちの顔を見ながらその人達の作った音楽を聴くことによってより深く…」と説明するも、チコちゃんに「全然フツー、そんなの。 入口が普通、そんなのバックレてない」と言われてしまう。 的場が、言い直しをするが結局「ぼーっと生きてんじゃねーよ!」と言われれる。 という顔の岡村。 的場も「…要するにトライアングル買ったらバッハが付いてくるみたいな?」というと、笑いが起こる。 [ad] 始まりは「音楽家の肖像画をのせたカレンダー」 音楽室にある肖像画を最初に作った会社で営業を担当していた佐藤さんによれば… 「学校の音楽室にある肖像画は、もともと昭和30年ごろ、私のいた会社が楽器を買って欲しくて おまけとして『音楽家の肖像画をのせたカレンダー』を配ったのがはじまり」だという。 「楽器のおまけ」に肖像画 音楽家の肖像画を楽器のおまけにしようと考えたのは、当時の島田貞二社長。 クラシックの楽譜などを販売していたこの会社の島田社長は、新事業として学校への楽器の販売を考えていたという。 (その時の様子を…ここからは例の「NHK たぶんこうだったんじゃないか劇場」で説明した。 ) 楽器の販売では、うちは新参者という事で何かいい宣伝方法がないか考えていた社長。 社員との話の中で、カレンダーをおまけにつける事を思いつく。 さらに(当時作曲家の顔がわかる物があまり出回ってなかったの時代だったので)友人の洋画家、大貫松三に頼んで、「ヨーゼフ・カール・シュティーラー」が描いた「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベン」という肖像画をモデルにしてヴェートーベンの肖像画を書いてもらった。 島田社長は、友人が描いた肖像画に12ヶ月分の日付をつけ 「楽器のおまけ」として配った。 音楽室に肖像画を貼られるようになったきっかけ これが大好評だったので、翌年のカレンダーは バッハ「エリアス・ゴットロープ・ハウスマン作」、その翌年は ヘンデル「トマス・ハドソン作」と毎年作曲家の肖像画を変え、カレンダーを配った。 学校の先生たちはこのおまけ(肖像画)を大変喜び、カレンダーの日付部分を切り、翌年になっても肖像画の部分を音楽室に貼っていた…これが音楽室に肖像画を貼られるようになったきっかけとなる。 教室には毎年、肖像画が増えていった。 昭和42年、文部省が作曲家の肖像画を音楽の教材(中学校音楽教材基準)に加えたため、大貫の描いた肖像画は全国の音楽室へと広まっていった。 …そう考えると、二人が違った絵を選んでいたら違った顔になっていたかもしれませんね、と佐藤さんが、言っていた。 まとめ 12月15日の「チコちゃんに叱られる!」で… チコちゃんはゲストの鈴木杏樹を「あの『あすなろ白書』でお馴染み、鈴木杏樹さん」と紹介。 」と紹介した。 」で的場浩司が所属していた不良野球チームの名前) それを聞いた的場「すごいのきた。 (それが放送された時)チコちゃんまだ生まれてないよ」と言う。 するとチコちゃん「ううん、あたしはね、いろんな記憶が出入りするから大変なのよ」と答えた。 社員「社長なんかお悩みですか?」 社長「楽器の販売では、うちは新参者なので、何かいい宣伝になるもことを考えなくては」 社員「買った人が喜んでもらえるものがいいんではないか」と答える。 社長「君だったら何を喜ぶ?」 社員「買ってそこにおまけがついてきただけで喜んじゃう」 社長「それだ!」 社長の眼が光る! 社員が「トライアングルの棒をおまけでもう一本ですか?」と聞くと「君ね、チャーハン頼んで半チャーハンが付いてきても嬉しくないだろ?それだったら最初から大盛チャーハンを頼むって話だろ?」 社員「なんの話ですか?」 社長「時間がない、早く決めないと間に合わないぞ。 今日何日だ?」 社員「えーっと…ちょっと待ってください」と何かを探しはじめる。 それを見ていた社長「それだ!」と眼が光る! 「カレンダーだ!」と言う。 もともと島田の会社は出版社なのでカレンダーを作ったこともありノウハウはあった。 社員「カレンダーは、やはりシンプルに数字だけの方が扱いやすいですかね」 社長「もっと、うちらしい物はないかね?」と考えている時、社長の目の前にヴェートーベンの楽譜があった。 社長「君、ヴェートーベンの顔は知っている?」 社員「いえ、知りません」 すると社長の眼が光り…「これだ!」と言う。 社長「ヴェートーベンの名前は知っていてもヴェートーベンの顔は誰も知らない。 当時(昭和初期)日本には作曲家の名前や曲は伝わってきていたが、肖像画など作曲家の顔がわかる物はあまり出回っておらず、ヴェートーベンがどんな顔なのかほとんど知られてはいなかった。 困った島田はある男を呼び出した 洋画家の大貫松三(山西惇)だった。 大貫は、佐藤さんの義理の父で、社長と仲の良い友人だった。 社長は大貫に「ヴェートーベンの顔をすぐに描いて欲しい」と頼む。 大貫は、西洋で書かれたヴェートーベンの肖像画を数点集め、候補3点を社長に見せ、参考にするために選ばれたのが「ヨーゼフ・カール・シュティーラー」が描いた「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベン」という肖像画だった。 大貫は、これをモデルに(手に持った楽譜などを省いた)ヴェートーベンの肖像画を描いた。 (出来上がった絵は、音楽室で見たことがあるあの肖像画だった) (島田の会社は)この大貫が描いた肖像画に12ヶ月分の日付をつけ 「楽器のおまけ」として配った。

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ベートーベンの生涯・年表まとめ【名言や功績、死因、性格についても解説】

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本日は「楽聖忌」。 1827年のこの日、ベートーヴェンがウィーンの自宅で亡くなった。 小学校の音楽室に飾られているベートーヴェンの肖像画。 楽譜とペンを持って上目づかいで睨みつけたような表情のベートーヴェンがおなじみである。 この絵はアントニー・ブレンターノ夫人の依頼で1819年から1820年頃にヨーゼフ・シュティーラーが描いたもの。 実際にベートーヴェン自身がモデルになったことはなく、かなり理想化されている。 髪もこれほど豊富ではないが、当時、音楽は「かつら」 ツーペtoupeeという の着用が正装とされたが、ベートーヴェンは「かつら」を嫌ったので、髪を多く描いたと思われる。 ベートーヴェンの肖像画は多数残されているが、共通するベートーヴェン像がないので、一番理想化されたシュティーラーのベートーヴェンがよく使われている。 実際にベートーヴェンを写生したのは臨終の姿を描いたジョセフ・テルシャー 1801-1837 の絵である。 彼はベートーヴェンとはなんら面識もなく、有名人を見るために勝手にスケッチしたものらしい。 Ludwing van Beethoven.

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