お歯黒 なぜ。 奇妙な文化「お歯黒」。1000年以上も続いたのにはワケがあった。

おしろいは鉛入りで有毒、お歯黒はくさい。江戸時代の化粧はなにかと大変だった|江戸ガイド

お歯黒 なぜ

日本 [ ] 日本では古代から存在したとされ、主に民間では末期まで、東北など一部地域では昭和初期まで見られた。 むらなく艶のある漆黒に塗り込めたものが美しいとされ、女性の化粧に欠かせないものであった。 現在では、審美観の変化から、大多数の人がお歯黒を美しいものとはとらえておらず、伝統演劇や花柳界以外では美的な要素よりも醜悪さや滑稽さを演出する道具として用いられることが多い。 名称 [ ] 「お歯黒」というのは日本の貴族の用語である。 「おはぐろ」の読みに 鉄漿の字を当てることもある。 御所では五倍子水(ふしみず)という。 民間では 鉄漿付け(かねつけ)、つけがね、 歯黒め(はぐろめ)などとも。 歴史 [ ] 起源はわかっていないが、初期には草木や果実で染める習慣があり、のちに鉄を使う方法が鉄器文化とともに大陸から伝わったようである。 に埋葬されていた人骨やにはお歯黒の跡が見られる。 『』に(『』では東南方)があると記述がある。 5年()にが持参した製法がのに現存する。 が中国から伝えた製造法は古来のものより優れていたため徐々に一般に広まっていったが、その製造法は当初は仏教寺院の管理下にあった。 このあたりが一般に日本のお歯黒が仏教に由来する習俗と言われる所以かもしれない。 お歯黒に関する言及は『』、『』にもある。 の末期には、に達し・を迎えるにあたって女性のみならず男性、などの、大規模寺院におけるも行った。 特にや上級貴族はを済ませた少年少女もやお歯黒、を行うようになり、皇室では幕末まで続いた。 には一般の大人にも浸透したが、に入るとに備えて8〜10歳前後ののへ成年の印として鉄漿付けを行ない、このとき鉄漿付けする後見の親族の夫人を鉄漿親(かねおや)といった。 また、一部の戦国武将(主にをはじめ他)は戦場に赴くにあたり首を打たれても見苦しくないように、ということから女性並みの化粧をし、お歯黒まで付けたという。 [ ]これらの顔がの女面、少年面、青年面に写された。 戦国時代までは戦で討ち取った首におしろいやお歯黒などの死化粧を施す習慣 があり、首化粧、首装束と呼ばれた。 これは戦死者を称える行為であったが、身分の高い武士は化粧を施し身なりを整えて出陣したことから、鉄漿首(お歯黒のある首)は上級武士を討ち取ったことを示す証ともなったため、功を高める(禄を多く受ける)目的で白い歯の首にもお歯黒を施すこともあった。 「化粧三美人」 手鏡を見ながらおはぐろをつける女性を描く。 画面上部には「木々をみな 目に立田山 ひとしほに はを染て猶 いろまさりけり」との狂歌を添えている。 以降は皇族・貴族以外の男性の間ではほとんど廃絶、また、悪臭や手間、そして老けた感じになることが若い女性から敬遠されたこともあって既婚女性、未婚でも18〜20歳以上の女性、及び、、の化粧として定着した。 農家においては祭り、結婚式、葬式、等特別な場合のみお歯黒を付けた(童話にもその描写がある)。 明治3年()、政府から皇族・貴族に対してお歯黒禁止令が出され、それに伴い民間でも徐々に廃れ(明治以降農村では一時的に普及したが)、時代にはほぼ完全に消えた。 においては演劇、、一部の、頃までの(等)の等で見ることができるだけである。 尚、お歯黒はとセットになる場合が多い。 以上をまとめると、以下の通りである。 平安時代• 皇族・(元服・裳着後袴着後の少年少女もする場合あり、男女、未既婚を問わず)• 武家平氏(源氏は付けない場合が多かった)• 大規模寺院における稚児• 戦国時代• 婚姻した、また婚約した幼い姫君• 一部の戦国武将(以上は何れも眉を剃り、殿上眉を描く)• 江戸時代• 皇族・貴族• 都市部の既婚女性全般(引眉する、但しでは出産後に引眉する)• 18〜20歳以上の未婚女性(引眉する場合としない場合有り)• 遊女(江戸、上方、共、一人前、引眉しない)• 芸妓(上方のみ、一人前、引眉しない/江戸は付けない)• 演劇、花柳界、一部の祭り等 お歯黒の目的 [ ] きれいに施されたお歯黒には、歯を目立たなくし、顔つきを柔和に見せる効果がある。 も、日本の伝統美を西洋的な審美観と対置した上で、お歯黒をつけた女性には独特の妖艶な美しさが見いだされることを強調している。 谷崎の小説『』には、討ち取った敵将の首にお歯黒を施すところを見学し言い知れぬ興奮を覚える少年武州公も描かれる。 また、が十分に進歩していなかった時代には、歯並びや変色を隠すだけでなく、内の悪臭・・に予防効果があった。 お歯黒は、江戸時代以前の女性および身分の高い男性にとって、口腔のとの維持のため欠かせないたしなみであった。 ただし、お歯黒を見慣れない人々にとって、黒い歯は奇異で醜悪なものと映り、単に遅れた奇習と見なされたり、美容・衛生以上の特別な目的があるものと曲解される場合も少なくない。 実際、幕末に日本を訪れた多くの欧米人が、お歯黒は女性を醜悪化する世界に稀にみる悪慣習と評している。 はお歯黒は故意に女性を醜くすることで女性の貞節を守る役割があると推測している。 歴史社会学者のは著書「逝きし世の面影」の中で、これを否定し、お歯黒はマサイ族に見られるようなの表現であると考察している。 つまり自由を満喫し逸脱行為すら許容されていた少女が、お歯黒と眉を抜くという儀式によって、妻の仕事、母の仕事に献身することを外の世界に見える形で証明するためのものとしている。 現代の日本では、一部の伝統演劇や花柳界を除くと、お歯黒は醜悪さや滑稽さを演出する道具として用いられることが多く、美容目的の化粧としての意味づけはほぼ完全に失われている。 染料 [ ] 鉄漿を「かね」と読むと、染めるのに使う液を表す。 主成分は鉄漿水(かねみず)と呼ばれるにを溶かした茶褐色・悪臭ので、これを楊枝で歯に塗った後、粉(ふしこ)と呼ばれる、を多く含む粉を上塗りする。 これを交互に繰り返すと鉄漿水のがタンニン酸と結合し、非水溶性になると共に黒変する。 歯を被膜で覆うことによる予防や、成分がに浸透することにより浸食に強くなる、などの実用的効果もあったとされる。 毎日から数日に一度、染め直す必要があった。 鉄屑と酢で作れる鉄漿水に対し、ヌルデの樹液を要する五倍子粉は家庭での自作が難しく、商品として莫大な量が流通した。 江戸時代のお歯黒を使用する女性人口を3500万人とし、一度に用いる五倍子粉の量を1匁(3. 75g)として、染め直しを毎日行っていたと仮定した場合、1日の五倍子粉の消費量は20トン弱になったと考えられている [ ]。 なお五倍子粉は利用が幅広く、お歯黒の他、黒豆の着色や革の鞣しにも用いた。 現在も着色料として利用されている。 が「」を参考に再現実験を行った際には、、、を混ぜた水になどを入れて半年ほど寝かせた「お歯黒水」を作り、五倍子粉を加えて完成させた。 また簡便にした処方として、鑑真和尚がの僧侶たちに伝えたとされる粉末のお歯黒があり、五倍子粉、、を合わせた粉末から作られた。 拒否反応が少なく安全であるなど利点が多かったが、家庭で作れる鉄漿水に比べて高価であるという難点があった。 演劇用にはにを混ぜたものが使われた。 現代では(に墨を混ぜたもの)が多いが、本式の鉄漿も絶滅はしておらず、歴史研究家や歯科技師から成る民間団体「香登お歯黒研究会」によって、鑑真の製法に近いお歯黒「ぬれツバメ」が製造販売されている。 現在お歯黒を見ることができる場所等 [ ] 多くは演劇用の一時的なもの。 (既婚女性、、、役)• 花柳界• (、)• 、(京都市、舞妓は芸妓になる1〜4週間前)• (、)(年によってはお歯黒を付けない場合もある)• (、)• (、) 迷信・都市伝説・等 [ ]• 柳田国男によると、佐渡では衾(ふすま)という妖怪は刀や弓では傷つけられないが一度でもお歯黒をした歯なら噛み切れるという伝承があり、男性でもお歯黒をしていたという。 明治時代に一部地域で「電線に処女の生き血を塗る」という噂が広まったことから(実際はを塗布する絶縁作業を見たことからの勘違い)、その地域の妙齢の女性の多くが生き血を取られないようにお歯黒・引眉・地味な着物・等の既婚女性と同様の容姿となった。 江戸時代後期の画家竹原春泉作の『(別名『桃山人夜話』)』にというお歯黒をした妖怪が描かれている。 中国・東南アジア・等 [ ] 現代でも以下の少数民族地域において本式のお歯黒が見られる。 主に年配の女性に限られ、既婚でも若い女性がお歯黒をする例は稀である。 この地域向けにお歯黒の義歯が作られる。 も参照。 (、及び中国に接する地域)• (現代では付けない場合が多い)• (とを一緒に噛む習慣で副次的に歯が汚れる事と関連有り)• 参考文献 [ ]• お歯黒の研究(原三正著、人間の科学社)• 日本審美歯科協会 「」• お歯黒の歴史:杉山茂、 薬史学雑誌、 2007、42(1)、28-33• 『おあむ物語』(『』) 脚注 [ ] [] 注釈• 八神邦建 『明治節復活・昭和節制定推進フォーラム』 、2002年11月25日。 の2008年5月19日時点によるアーカイブ。。 『絵画史料を読む日本史の授業』千葉県歴史教育者協議会日本史部会、国土社, 1993、p88-89• 『』「昔の女」・「陰翳の世界」• 日東酵素株式会社. 2016年12月27日閲覧。 2016年12月21日文化欄「化粧文化 いにしえの素顔」 村田孝子ポーラ文化研究所シニア研究員 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 外部リンク [ ]• - (2019年1月1日アーカイブ分)•

次の

なぜ、おはぐろ(お歯黒)をやったのか、理由を教えてください。

お歯黒 なぜ

お歯黒の歴史 お歯黒の持つ歴史は古い 日本にお歯黒という文化・風習が存在していましたが、その歴史はとても古いものです。 なんと 古墳時代にまで遡ることになります。 発掘された 埴輪(はにわ)には、お歯黒を施されたものまで存在しているのです。 土器を使っていた時代には、すでにお歯黒を施した古代の日本人が存在していと考えられています。 古来は木の実や植物などを染料として、お歯黒を行っていたと考えられているのです。 やがて、海外からの鉄器が伝来したことにより、鉄を歯を黒く染めるための染料に使うようになっていきました。 仏教と結びついたお歯黒 お歯黒は中国にも存在していた文化です。 仏教僧である 鑑真(がんじん/688年~763年)により、753年に、中国でのお歯黒の染色方法が伝えられています。 しかし、当初は仏教寺院がその製法を独占していました。 若干、高価な品でもありましたが、性質の良さから旧来のものと取って代わるようになっています。 【関連記事】 お歯黒は時代の経過と共に広まっていく 平安時代で男女を問わず、貴族、武士、大寺院の稚児(見習い僧侶、貴族の子や芸道に長けた子供などがなる)などもお歯黒をするようになりました。 室町時代には、大衆文化になっていき、 一般の大人にも普及しています。 戦国時代においては、 戦場にまでお歯黒をして行く人物も現れるようになります。 これは戦場で討ち取られた首の見栄えを良くするという、一種の戦死者へのリスペクトにまつわる文化に由来しています。 死後、討ち取られた首が醜く変色しないように化粧をしていたり、お歯黒で身なりを整えていたわけです。 お歯黒は江戸時代に衰退 江戸時代に入ると、皇族や貴族を除いて、ほとんどの日本人男性がお歯黒をしなくなります。 老け顔に見えるという理由から、若い女性たちもお歯黒をしなくなっていき、既婚女性や18才以降の未婚女性が特徴的にお歯黒を行うようになります。 また、遊女や芸子などには 化粧としても定着していくのです。 遊女などが逃亡するのを防止するために、遊郭の周囲に掘られた溝を、 「お歯黒どぶ」とも名付けられています。 近代化に伴い、 明治以降、お歯黒をする日本人はいなくなります。 お歯黒をしたのはなぜなのか? お歯黒をしていると「美しい」 お歯黒を日本人がしていた主な理由は、かつての価値観においては、お歯黒をした 黒い歯が美しいものだと認識されていたことに由来しています。 現代の感覚と美意識とは異なってはいますが、文化というものは変遷するものだという証になるものです。 しかし、国土の質としてカルシウムの少ない日本では、虫歯の発生数は多いため、かつての日本でも多くの虫歯人口がいた可能性が考えられます。 虫歯による歯の変色や、歯並びの悪さを黒塗りで誤魔化すという発想は、それなりに理解が及びやすいものかもしれないです。 ヨーロッパの文化などからは、軒並み否定されているお歯黒ですが、耽美的な作風でも知られる文豪・ 谷崎潤一郎などからは、妖艶な美しさがある、と評価もされています。 お歯黒をしていると歯が守られる 意外な事実ですが、お歯黒には 歯のエナメル質を守る効果があります。 歯の表面にフィルター状に塗り込むことになるため、歯を守ってくれる存在にもなるのです。 さらには、お歯黒は数日あるいは一日ずつ、剥がして塗り替えたりするため、爪楊枝などで歯をこすって落とすことになります。 それは、現代で言えば、歯磨きという行為にも置き換えられ、その効能は虫歯の予防、歯周病の予防としても機能していたと考えられています。 お歯黒による妖怪対策 妖怪「お歯黒べったり」(出典:ja. wikipedia. org) 佐渡に現れるという妖怪に 「ふすま」というものがいます。 ふすまは布のような体を持つ妖怪で、人の首をその体で絞め殺してしまうとして、恐れられる妖怪です。 しかし、ふすまの体はお歯黒を施した歯なら、噛み切ることが出来るとされています。 そのため、大昔の佐渡では妖怪対策としてもお歯黒を使っていたのです。 また、 お歯黒べったりという妖怪もいたとされ、妖怪との関係も少なからず存在しています。 お歯黒は社会的な立場を示すことにも使われる お歯黒の文化がある ベトナムでは、かつての清帝国との戦いの時代のスローガンに「長い髪のために戦おう!黒い歯のために戦おう!」というものがあります。 お歯黒の文化を民族独立の アイデンティティーの確立や、 戦意の高揚に使ったわけです。 日本では既婚女性など、社会的な立場を伝えるものという側面も持っていたので、お歯黒は社会的な信号を発するものという機能も時に持っています。 海外のお歯黒文化 東南アジアにあるお歯黒文化とは ミャンマーのアカ族の女性(出典:en. wikipedia. org) 鑑真が伝えたぐらいですから、中国にもお歯黒は存在しています。 そして、中国以外にも多くのアジアの国にお歯黒の伝統は存在してます。 フィリピン、 タイ、 ベトナム、 ラオス、 ミャンマー、 インドにも歯を黒く染めるという文化は存在しているのです。 昔のベトナムでは、歯が白いと「犬みたい」だという評価を受けることになります。 太平洋の オセアニア地域にも、お歯黒の文化はあります。 南米のシュアル族にあるお歯黒文化とは 南米の エクアドルから ペルーにまたがり住んでいる シュアル族にも、歯を黒く塗る文化が存在しています。 シュアル族には倒した敵の首を狩り、頭蓋骨から剥ぎ取り煮込んで乾燥させて小さくするという干し首の伝統でも有名です。 シュアル族以外にも、一部の南北アメリカの部族において、歯を黒く染める文化が存在しています。 アフリカにあるお歯黒文化とは マダガスカルの一部にも、お歯黒の文化は存在しています。 歯を黒く染めるという文化は、南北アメリカ大陸に東南アジア、オセアニア、インド、アフリカにまで存在していたわけです。 もはや、 世界規模の文化だったと言えます。 歯を尖らせるという文化 歯の色を変えるだけでなく、 歯の形状を変えるという文化も存在しています。 アフリカのコンゴやスーダン、バリ島、ベトナム、オーストラリアのアボリジニーなどには、 歯を削って尖らせる文化も存在していたのです。 それには大人としての通過儀礼としてという理由や、怒りを表す歯を削ることで冷静な人格を手に入れるため、あるいは信仰的な理由などから、様々な理由と目的があります。 ちなみに、マヤ文明では、歯に身分の証となる彫刻を刻んでいたのです。 歯に改造を施す文化は、世界中の文化にあるようです。 【関連記事】 お歯黒に使用している染料と成分 お歯黒の染料の成分は主に鉄とお酢とタンニン 鉄を お酢で溶かして作る、鉄の溶液「鉄漿(かね)」を歯に塗り込みます。 そして「五倍子粉(ふしこ)」と呼ばれる タンニンを多く含む粉を、鉄漿に上塗りします。 その行為を何度も繰り返すことで、お歯黒は完成するのです。 お歯黒の虫歯予防のメカニズム タンニンは歯や歯肉の タンパク質と結合することで、細菌による歯の溶解を防止します。 鉄分と歯の成分であるリン酸カルシウムやエナメル質の主成分であるハイドロキシ・アパタイトに作用し、耐酸性を高めます。 さらに酸化した鉄分とタンニンが結合し、これが膜状となり歯を守るフィルターになるわけです。 現在の歯科領域の研究でも、お歯黒の成分を虫歯の穴に埋め込むセメント剤と増せることで 虫歯予防効果を高められないかという研究が行われてもいます。 考古学的にも証明されたお歯黒の虫歯予防効果 墓や塚などから掘り起こされた昔の人骨には、 お歯黒を施した歯には虫歯が極端に少ないという報告もあります。 医学的にのみではなく、考古学的にもお歯黒の虫歯予防効果は証明されたのです。 じつに伝統的な虫歯予防の材質という側面もお歯黒にはります。 古いものを分析し直すことで、新たな発見をすることもあるのが考古学の楽しいところです。 まとめ.

次の

お歯黒には何の意味があったの?日本人がはじめた理由や由来を詳しく解説

お歯黒 なぜ

なぜ昭憲皇后ではなく、昭憲皇太后なのか? Commentary of the History 20-2.なぜ昭憲皇后ではなく、昭憲皇太后なのか? (2002. 明治天皇さまのお后 (きさき)さまなら「皇太后」でなく「皇后」とお呼びするのが正しいのではないかという考え方もございますが、実はこのいきさつについてはたいへん難しい問題があります。 昭憲さまは嘉永 (かえい)3年(1850)4月17日(新暦5月28日)一条忠香 (ただか)の三女として御誕生あそばされました。 同年5月9日に宮内省告示第九号により「昭憲皇太后」のご追号が仰せ出されたのでした。 そして大正4年5月1日には明治神宮の御祭神として内務省告示第三十号により祭神「明治天皇・昭憲皇太后」の祭神名が発表されたのです。 ところがこの御祭神名について有識者の中から疑問の声が出てきたのです。 理由は• 両陛下を相並んでお呼びする場合、「天皇皇后両陛下」と称するのであって「天皇皇太后両陛下」とは称さないこと。 「皇太后」は天皇の母親の意味であること。 よって明治神宮の御祭神は御夫婦であられるから「明治天皇・昭憲皇后」が正しい。 亡くなった方にはご生前の時の最高の位でお呼びすることが常例。 「皇太后」の称号は「皇后」より下の位になる。 だから昭憲さまは生前「皇后」でしたので、「昭憲皇后」と称するのが正しいことになる。 では、なぜこのような称号をつけてしまったのでしょうか。 昭憲さまが崩御されたのは大正3年です。 はじめにこの上奏の時点で間違いが生じました。 そしてそのまま御祭神名も「昭憲皇太后」としてしまったのです。 このような経緯から明治神宮の御祭神名としてそぐわぬことから「昭憲皇太后」を「昭憲皇后」と改めるよう、御鎮座寸前の大正9年8月9日 (明治神宮の御鎮座は大正9年11月1日)明治神宮奉賛会会長徳川家達 (いえさと)より宮内大臣宛へ建議が出されました。 しかし諸事の理由から御祭神名を改めることは出来ませんでした。 その理由として• 天皇より御裁可されたものはたとえ間違っていても変えられない。 すでに御神体に御祭神名がしるされていて、御鎮座の日までに新しく造り直すことが無理。 の二点があげられています。 時代が下って昭和38年12月10日、明年(昭和39年)の昭憲皇太后50年祭にあたり宮内庁へ「昭憲皇太后御追号御改定に関する懇願」が神宮より、また崇敬会会長高橋龍太郎より「昭憲皇太后御追号御改定につき御願」が提出され、続いて昭和42年12月26日に明年(昭和43年)明治維新百年にあたり再度「御祭神の御称号訂正につき懇願」、崇敬会会長足立正より「御祭神の御称号訂正につき再度の御願」が提出されました。 しかし宮内庁の回答は改めないとのご返事だったそうです。 」と言っています。 君主が臣下に奏する案文を親裁許可すること。 明治憲法下で、天皇が議会の協賛した法律案及び予算案を親しく裁量して、 確定の力を付与した意思表示。 その形式として御名を署し、御璽を押印した。 新羅 (しらぎ)を征して凱旋し、応神天皇を筑紫で出産した。 正直言って、この様な呼称は本来あり得ない訳で、異常です。 一般的に考えれば、明治天皇に対する「皇太后」は、「(明治)天皇の母」 (先帝皇后)すなわち孝明天皇の皇后である英照皇太后 (孝明天皇に対する「皇太后」と言う呼称も本来おかしいのだが)を指すのが常道であり、美子皇后を「(昭憲)皇太后」と称す事はやはりおかしい。 昭憲さまが崩御されたのは大正3年です。 すでに明治天皇は崩御され(明治45年7月30日)、大正天皇が践祚されたので皇太后となられたのでした。 崩御された時はすでに皇太后であらせらたのですが、当時の宮内大臣が昭憲さまのご追号を皇后に改めないで、「昭憲皇太后」としてそのまま大正天皇に上奏し御裁可下となったのです。 もしも、崩御時の位で尊号の呼称が「皇后」であったり、「皇太后」であったりと変化するのであれば、例えば、天皇についても、在位中に崩御すれば「天皇」、譲位後に崩御すれば、「太上天皇」(上皇)と謚号 (おくりな)が変化しても良い筈です。 しかし、現実にはその様な事例は只の一度もありません。 又、宮内大臣が間違ったまま上奏したと言うのも合点がいきません。 こと、先帝皇后の追号の件です。 その様な重大事でケアレスミス等あり得るでしょうか? 更に、宮内大臣の間違った上奏を何の訂正もせずに大正天皇が裁可するでしょうか? 追号の決定と言うものは、それ程軽々しく扱われる事案なのでしょうか? 私には、どうにも腑に落ちません。 その理由として 1. 天皇より御裁可されたものはたとえ間違っていても変えられない。 もし、「昭憲皇太后」と言う追号が宮内大臣らのミス等でなかったとしたら、一体どう言う事になるのでしょうか? つまり、上奏した宮内大臣も、裁可した大正天皇も、追号が「皇太后」である事を百も承知の上で、敢えて裁可したのだとしたら。 話は全く違ってきます。 その観点に立って、「皇太后」追号を裁可されたのだとしたら? 後に、各界から「皇太后」では無く「皇后」では無いのか? と言った声が上がった時になって、真実を秘匿する為に考え出されたのが、ずばり、• 宮内大臣上奏の際の手違い• すなわち、 「伊藤は畏れ多くも (本来の明治)天皇を暗殺した大罪人・・・」 だったとか何とか。 「天皇暗殺」と言う事件について、案外、当時の国民は薄々と言うか何となくと言うか、様々な風聞で勘付いていたのかも知れません。 ただ、『大日本帝國憲法』 (明治憲法)における 第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス と言う条項から、敢えて追求しなかったのかも知れません。 そうでもなければ、朝鮮人の安重根までが知っていた理由がつきませんから・・・。

次の