鐘 が 鳴る なり 法隆寺。 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』から読み解く正岡子規の想いとは・・・

鐘 が 鳴る なり 法隆寺

成立 [ ] 5月、子規は連隊付き記者としてに従軍中に喀血、神戸に入院したのち故郷に戻り、松山中学の教員として赴任していたの下宿(愚陀仏庵)に50日ほど仮寓した。 漱石は2階、子規は1階に棲み、子規はら松風会のメンバーに漱石を加えて句会三昧の日々を過ごしていた。 その後病状がよくなったため10月下旬に帰京するが、その途中で奈良に数日滞在している。 子規の随筆「くだもの」(『ホトトギス』1901年4月号掲載)によれば、このとき子規は漢詩にも和歌にも奈良と柿とを配合した作品がないということに気付き、新しい配合を見つけたと喜んだという。 そして「柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな」「渋柿やあら壁つゞく奈良の町」「渋柿や古寺多き奈良の町」などの句を続けて作った。 もともと子規は大の柿好きで、学生時代には樽柿(酒樽に詰めて渋抜きした柿)を一度に7、8個食べるのが常であった。 1897年には「我死にし後は」という前書きのある「柿喰ヒの俳句好みしと伝ふべし」という句を作っている。 さらに「くだもの」では、奈良の宿先で下女の持ってきたを食べているとき、折から初夜を告げるの釣鐘の音が響いたことを記している。 しかしこのときは「長き夜や初夜の鐘撞く東大寺」として柿の句にはせず、翌日訪ねた法隆寺に柿を配した。 ただし子規が法隆寺を参詣した当日は雨天であったため、この句は実際の出来事を詠んだものではなく、法隆寺に関するいわばフィクションの句であると考えられる。 なお当時の子規の病状などから考えて、実際に法隆寺を参詣したこと自体を疑問視する意見もある。 また『海南新聞』の同年9月6日号には、漱石による「鐘つけば銀杏散るなり」という、形のよく似た句が掲載されていた。 は、子規が「柿くへば」の句を作った際、漱石のこの句が頭のどこかにあったのではないかと推測している。 受容 [ ] 現在では非常に著名な句であるが、『海南新聞』に掲載した際にはとりたてて反響があったわけではなかった。 、によって編まれた俳句選集『春夏秋冬』(1902年)や『子規句集講義』(1916年)、虚子の『子規句解』(1946年)などにもこの句は入れられておらず、子規の俳句仲間の中で評価されていた形跡はない。 子規の自選句集『獺祭書屋俳句帖抄上巻』に収録された後、碧梧桐は『ホトトギス』誌上の書評において、この句はいつもの子規調であれば「柿喰ふて居れば鐘鳴る法隆寺」としたはずではないかと述べた。 これに対して子規は「病牀六尺」で、「これは尤(もっとも)の説である。 併(しか)しかうなると稍々(やや)句風が弱くなるかと思ふ」 と答えている。 9月、法隆寺境内に子規の筆跡によるこの句の句碑がらによって立てられた。 この場所は句の前書きにある茶店のあった跡地である。 前述の坪内は、このころから法隆寺の一種のとしてこの句が広まっていったのではないかとしている。 、全国果樹研究連合会はを子規がこの句を詠んだ日として「柿の日」と制定した。 この句のパロディがいろいろあるが、オマージュとして「柿食えば遥(はる)か遠くの子規思う」は小林凜(りん)の句で出版され、ベストセラーになった『ランドセル俳人の五・七・五 いじめられ行きたし行けぬ春の雨--11歳、不登校の少年。 生きる希望は俳句を詠むこと。 』()に載っている。 脚注 [ ]• 夏井いつき選 「子規二十四句」『正岡子規』 河出書房新社<KAWADE道の手帖>、2010年、21頁• ただし初出の『海南新聞』1895年11月8日号では前書きは「茶店に憩ひて」となっている。 「病余漫吟」では「法隆寺茶店にて」。 「病床六尺」では上五が「柿食へば」。 『寒山落木』『獺祭書屋俳句帖抄上巻』では前書き・表記とも掲出したものに同じ。 (宮坂、129頁)• 坪内、121-122頁• 正岡 1985 、167頁• 坪内、122-123頁• 宮坂、130頁• 和田悟朗 「子規と法隆寺」「岳」1987年7月号(宮坂、131頁より)• 坪内、122頁• 正岡 1958 、176頁 参考文献 [ ]• 正岡子規 『病牀六尺』 岩波文庫、1958年• 正岡子規 『飯待つ間』 岩波文庫、1985年• 坪内稔典 『正岡子規 言葉と生きる』 、2010年.

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『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』から読み解く正岡子規の想いとは・・・

鐘 が 鳴る なり 法隆寺

柿食へば鐘がなるなり法隆寺:子規の写生句 柿食へば鐘がなるなり法隆寺:子規の写生句 正岡子規は生涯に夥しい数の俳句を作った。 だがその割に名句と呼ばれるようなものは少ない。 筆者が全集で読んだ限りでも、はっとさせられるようなものはそう多くはなかった。 むしろ退屈な句が延々と並んでいるといった印象を受けたものである。 まあ、筆者は俳句作りには熱心なほうではないので、鑑賞の仕方も邪道なのかも知れぬ。 それにしても、明治の俳句の刷新者といわれる人物が、これでは寂しい限りといわねばなるまい。 芭蕉と比較するのは気の毒かもしれないが、蕪村や一茶と比較しても、名句の数ははるかに少ないのではないか。 おそらくその理由は、子規が俳句においても写生にこだわったことだろう。 その結果、季題や連句など俳諧のよき伝統をも軽視し、俳句から遊びの部分や優雅さを追い出してしまったのではないか。 写生というのは、印象のまとまりからなっているものだ。 だからある程度の言葉数を必要とする。 子規が和歌のほうでは非常な成功を収め、よい歌が多いのは、和歌の字数が写生に耐えるほど多かったせいだろう。 俳句というのは、表向きの言葉に表れていないものまでも、読者に想起させることによって成り立っている。 それを容易にする工夫として、季語を始めとする約束事がある。 子規はそれらを軽視して字づらだけで勝負しようとしたために、人に訴える俳句を多くは作れなかったのだ。 そんな中で、子規のもっとも有名な句は 柿食へば鐘がなるなり法隆寺 であろう。 国語の教科書にも必ず採用されているから、日本人であれば知らぬものがないほど、人口に膾炙している。 その内実に関しては、それこそ何万という人が注釈を加えてきたので、ここで拙論を展開するつもりはない。 ただ、この句が成り立った前後の事情について、紹介しておきたい。 柿は子規が最も好んだ食物だった。 それを旅先で食っていると、法隆寺の鐘が聞こえてきた。 季節は秋、恐らく鐘の音は、澄んだ空気を伝わって聞こえてきたのだろう。 なんともほのかな旅情を感じさせる句である。 ところがこの句は始め、法隆寺ではなく東大寺近くの宿屋で着想されたのではないかとの説がある。 日下徳一の「子規」という本によれば、次のようないきさつを経てこの区が作られたというのだ。 子規が奈良を訪れたのは、松山での漱石との共同生活を打ち切って東京へ戻る途中である。 大病の後であるし、また脊椎カリエスのために腰が痛み始めた頃だったので、子規の健康状態は悪かったのだが、奈良を訪れることは年来の念願だった。 子規は奈良へ着くと東大寺南大門近くの角貞という旅館に宿をとった。 そこでは 大仏の足もとに寝る夜寒かな という句を残している。 子規が部屋で寛いでいると、旅館の女中が現れて、子規の好きな柿を剥いてくれた。 そのときの様子を子規は、後に「くだもの」と題する随筆の中で回想している。 「此女は年は十六七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立ちまで申分のない様にできてをる。 生れは何処かと聞くと、月ヶ瀬の者だといふので余は梅の精霊でもあるまいかと思ふた。 やがて柿はむけた。 余は其を食ふてゐると彼は更に他の柿をむいてゐる。 柿も旨い、場所もいい。 余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音がひとつ聞こえた。 彼女は初夜が鳴るといふて尚柿をむき続けてゐる。 余には此初夜といふのが非常に珍しく面白かったのである。 あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ。 」 子規はこのときの東大寺の鐘の音が余程頭に残ったのであろう。 だから後に法隆寺で実際に鐘の音を聞いたとしても、その音が東大寺の鐘の音と重なった可能性がある。 いやむしろ、東大寺の鐘を無理に法隆寺につなぎ合わせた可能性さえある。 子規が法隆寺にやってきたのは奈良に到着して四日目、その日の天候は上記の本によれば雨模様であったらしい。 子規には法隆寺を詠んだ句がほかにいくつかあるが、それらは いく秋をしぐれかけたり法隆寺 のように、雨を読み込んでいる。 柿食えばの句は、やはり冴え渡った空を連想させるので、雨の中で詠んだというのでは格好がつかぬ。 こんなわけで、子規のこの有名な句は、東大寺の鐘と法隆寺の鐘との合作だというのが、上記の本の推論の内容である。 この話はあれほど写生を重んじた子規には、あるいは相応しくないといえるかもしれない。 しかしもし本当だったとしたら、子規にも食えない側面があったということを伺わせるに足る話である。 ||||. 検 索.

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【知られざるニッポン】vol.27「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」

鐘 が 鳴る なり 法隆寺

これはかの有名な正岡子規の俳句であり、『海南新聞』1895年11月8日号に掲載された俳句であります。 正岡子規は明治25年に日本新聞社に入社し、日清戦争の記者として働いていましたが、明治28年に正岡子規は病を患い既に重病であったともいわれています。 しかしながらなんとか奈良を訪れ、その際ここ法隆寺を訪れ、その際に詠んだ俳句が『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』であるといわれています。 正岡子規は東大予備門において夏目漱石、南方熊楠、山田美妙など同窓生であり、漱石とはとても仲がよく、正岡子規が病に患ってからも療養生活の看病に必死にしていたといわれています。 奈良を訪れた正岡子規が詠んだ『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』への想い・・・ 最初に奈良の市内を散策をして、興福寺、大仏殿のある東大寺、春日大社を参拝しました。 実は正岡子規は東大寺についても俳句を詠んでおり、『長き夜や初夜の鐘撞く東大寺』『大仏の足もとに寝る夜寒哉』などがその代表とされています。 そして『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』は、療養生活の世話、奈良旅行を工面してくれた漱石に対して、漱石の作である「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」の句へのお礼の句であるといわれています。 季語は柿でありこれは秋の象徴でもあります。 この句でいう柿は大和名産の御所柿と考えられています。 『法隆寺の茶店に憩ひて』と前書きがあり、法隆寺に立ち寄った後、喫茶店で一服して柿を食べていると法隆寺の鐘が鳴り、その鐘の音色に秋の訪れを感じた、というのがこの句に込められて正岡子規の想いでもあります。 尚、「くへば」一見逆説にも思われがちですが、単に「食べていたら」という事実を述べているにすぎず、「鐘が鳴るなり」と特別に因果関係があるわけではありません。 ちなみに正岡子規が法隆寺を訪れた10月26日とされ、この日はこの句にちなんで『柿の日』にも制定されています。 この句は実際に詠まれたのか しかし正岡子規が法隆寺を訪れた日は、雨であったとされこの句は実際に詠まれたかどうか疑問点も残されています。 また正岡子規は奈良を訪れた際には、かなりの病状も悪化をしていたと考えられており、実際に法隆寺を訪れることができたのかという点も疑問点に残されています。 もしかすると、病で床についていた正岡子規は、外で秋の訪れを感じたいという自分自身の願望をも句にしていたのかもしれません。 奈良の観光は、正岡子規にとって最後の旅行であり、明治35年に35歳の短い生涯を終えました。 しかしこうしてこの句をきけば誰もが法隆寺を思い出し、法隆寺は今世界遺産に登録をされ、人々から愛されるお寺となっていることは、正岡子規にとってもきっと喜ばしいことに違いありません。

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