エイズ の 始まり。 HIVはいつ、どこからやってきた?

後天性免疫不全症候群

エイズ の 始まり

1980年代にアメリカで初めて発見された エイズ患者。 そのウイルスであるHIVは、いったいどこから人間社会へ現れたのでしょうか? 私が甥っ子の陽介に説明するのであなたもいっしょに聞いてください。 (甥っ子慎太郎) おじさん、HIVっていったいどこから来たの? (私) 慎太郎、それはまだハッキリとはしていないんだよ。 (陽介)えー!まだ分かっていないんですか? (私)そう、100%断定されるまでには至ってないんだ。 ただし、たぶんそうじゃないかという推測は多くの研究者が発表しているんだよ。 (陽介)それはどんな推測なんですか? (私)現在もっとも有力とされているのは、アフリカでチンパンジーから人に感染したのではないかとされているんだ。 (陽介)アフリカですか?でも、一番最初のエイズ患者はアメリカで発見されたんでしょう? アフリカとアメリカってえらく遠いと思うんですけど。 (私)その通りだね。 1981年、アメリカで普通の人なら感染しない、免疫不全の人によく見られる感染症を発症した人が次々と見つかった。 これがエイズ患者の始まりとされている。 (陽介)それまでは全くエイズ患者はいなかったんですか? (私)いや、たぶんそうではないと言われているよ。 アメリカで報告されたのが正式認定された患者というだけであって、それ以前にアフリカの色んなところでエイズらしき患者は見つかっているんだ。 また、アメリカで報告される10年くらい前にヨーロッパでも免疫不全による日和見感染症患者の記録が残っているんだよ。 しかもその患者のほとんどがアフリカと密接な関係があったらしい。 (陽介)うーん、そうなんですか。 その当時はエイズとは呼ばれなかったんですね。 (私)そうだね。 エイズという名前が付けられたのが1982年、HIVが発見されて確定したのが1984年だ。 だからそれ以前は「奇病」扱いだったんだろうね。 「謎の感染症」だったかも知れない。 (陽介)でも、どうしてチンパンジーから人間に感染したんですか? (私)それも色んな仮説、推測があるだけでハッキリとは分かっていなんだよ。 ただ、サルやチンパンジーなどに感染するSIVというウイルスが1985年に発見されて、これがHIVに非常に近いことが分かったんだ。 (陽介)SIVって何ですか? (私)Simian Immuno-deficiency Virusの略で、日本語で言えば「サル免疫不全ウイルス」のことだよ。 (陽介)人間に対するHIVと同じなんですね? (私)そうだよ。 サルに後天的な免疫不全疾患を発症させるウイルスだ。 (陽介)じゃ、そのSIVが人間にも感染してHIVになったんですか? (私)そう簡単じゃないよ。 ウイルスの感染には「種の壁」というのがあって、どの動物にも感染するウイルスなんていない。 ウイルスが感染できる動物は決まっているんだ。 SIVも元々は人間には感染しないウイルスなんだよ。 (陽介)それがどうして人間に感染したんですか? (私)さっき言ったように突然変異で人間にも感染できるようになったと推測されているんだ。 (陽介)突然変異ですか。 (私)HIVというウイルスは容易に変異を繰り返すウイルスで、それが未だにワクチンが出来ない理由でもあるんだ。 (陽介)そんなに簡単に変異するんですか? (私)そうだよ。 ウイルスの遺伝子は人間の遺伝子みたいに完成度が高くないから、自分のコピーを作るときに元の情報とは違うウイルスが作られてしまうことがあるんだよ。 変な言い方だけど失敗作というか、出来損ないみたいな。 (陽介)人間でそんなことが起きたら大変ですね。 (私)そうだね。 でも人間の体でも新しく生まれる細胞に異常があって、それが大きくなってがん細胞になることがあるんだよ。 まぁ、ほとんどは免疫細胞が攻撃してがん細胞にまでならないけどね。 (陽介)そうなんですか。 人間でもあるんですね。 (私)そうだよ。 でもウイルスの場合は別に失敗作が生まれようと、どんな変異をしようと全くおかまいなしだからね。 どんどん自分のコピーを作ることだけに専念してるってわけだ。 (陽介)それじゃHIVはSIVが突然変異してできたウイルスなんですか? (私)今のところその説が有力とされているね。 サルやチンパンジーの体内にいたSIVが何かのきっかけで人間の体内に入り、そこで突然変異を起こして人間にも感染できるようになってしまったと考えられているんだ。 (陽介)何かのきっかけとはどんなことですか? (私)陽介のその質問に関して、おじさんが最近読んだ本に興味深い記事があったよ。 「エマージングウイルス」という本なんだけど、その中に「チンパンジーはどこでエイズに感染したのか?」という章があってね。 チンパンジーやサルから人間への感染について推測が書かれてある。 (陽介)どんなことが書かれているんですか? (私)例えばこんなことだよ。 アフリカでは多くの密林、ジャングルが人間によって開拓されていった。 これは環境破壊の問題として陽介も聞いたことがあるだろう? (陽介)はい、あります。 (私)そうした密林の開拓には多くの人間がそれまで入ったこともないようなジャングルの奥地にも入っていくね。 そしてそこで長い期間住み着いて工事を行うことになる。 (陽介)そうですね。 交通の便もないし、ホテルもないですよね。 (私)そうだよ。 食料だって十分にはない場合もある。 そこでは現地で動物を捕まえて食料にすることが珍しくない。 今まで人間社会とは全く接点がなかった動物が人間と緊密に接触することになる。 (陽介)なるほど。 当然、動物から人間への感染の機会も増える訳ですね。 (私)そうだよ。 直接食べたりしなくても血液や唾液、あるいは排泄物などからもウイルスは感染するからね。 (陽介)うーん、そうやってSIVが人間に入り込み、HIVへと変異したんですか。 (私)今のところその説が有力とされているね。 ただ、SIVにも種類があって、チンパンジーに感染するSIVから変異したものがHIV-1、スーティーマンガベイというサルに感染するSIVから変異したものがHIV-2と言われているんだよ。 (陽介)ふーん・・・そうなんですか。 それじゃ、HIVは人間だけじゃなく、サルやチンパンジーにも感染するんですか? (私)あ~、いい質問だね。 実は感染するんだよ。 (陽介)えーー!!HIVって人間だけじゃないんですか! (私)チンパンジーや一部のサルには感染する。 ただし、人間と違って免疫不全で病気になることはないんだ。 (陽介)うーん、それも不思議ですね。 サルやチンパンジーは病気にはならないんですか。 (私)そうだよ。 まぁ不思議としか言いようがないけど実際そうなんだ。 それ以上の詳しいことはおじさんにも分からない。 (陽介)とにかく、HIVはサルやチンパンジーに免疫不全を起こすウイルス、SIVが突然変異して人間にも感染するようになった、ということですね。 (私)そうだ。 その説が有力だね。 その変異がいったいつごろ起きたのか、正確には分からないけど少なくてもアメリカでエイズ患者が発見されるよるずっと前に起きてるはずだね。 そして忘れてはいけないのが、単にサルから人間に感染するように変異しただけでなく、人間から人間へ感染するようになったということだね。 (陽介)あ~、そうですね。 それってずいぶん意味合いが違いますよね。 (私)その通り。 動物から人間へ感染する変異だけならまだ防ぐことはある程度可能だけど、人間から人間へ感染すると爆発的に感染者が増えるね。 (陽介)あ!それってまさに今話題になっている鳥インフルエンザのことですね? (私)大当たり!それが言いたかったんだよ。 今のところ鳥インフルエンザは人間から人間への感染は報告されていない。 だけどいつ変異して感染するようになるかも分からない。 専門家もそれを一番恐れているんだ。 可能性は十分あるからね。 (陽介)うーん、HIVといい、鳥インフルエンザといい、ウイルスってホントに怖いですね。 (私)確かにね。 いくら医学が進歩してもウイルスの脅威はなくならないね。 では今日のお話はこれでお終い。 (陽介)おじさんありがとうございました! STDチェッカーは保健所や病院と同じ、 第四世代のHIV抗原抗体検査です。 急性期の検査では第三世代の抗体検査より信頼性が高いとされています。 第四世代のHIV抗原抗体検査です! ・HIV検査専用です。 (男女共通) ・第四世代HIV検査 ・私はたったの10分で終わりました。 ・ ¥4,600+消費税 ・ 重複感染は単独よりずっと危険! ・HIV ・梅毒 ・B型肝炎 (男女共通) ・重複感染の検査 ・ ¥7,750+消費税 ・ 一番人気! 5種類を同時に検査! ・HIV ・梅毒 ・B型肝炎 ・クラミジア ・淋菌 ・ ¥9,200+消費税 ・.

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エイズの始まり?

エイズ の 始まり

()『』1493年、版画 「生」に対して圧倒的勝利をかちとった「死」が踊っているすがた — の「黒死病」の流行は全ヨーロッパに死の恐怖を引き起こした。 感染症の歴史(かんせんしょうのれきし)では、において、特に後世に、、に甚大な影響を与えたについて記述する。 は感染症の対策や治療の探求により発展してきた。 感染症は、や文化の接触と交流、の拡大、などによって規模が拡大していった。 病原微生物ないし(やといった、、、、、、)がやのからだやに侵入し、定着・増殖してをおこすとを破壊したり、病原体がを出したりしてからだに害をあたえると、一定のを経たのちにとなる。 これをという。 類義語としてがあるが、これは伝染性をもつ感染症をさしている。 また、伝染性をもつ感染症の流行を(はやり病)と呼んでいる。 感染症の歴史はの出現とそのの歴史とともにあり、有史以前から近代までヒトのの大きな部分を占めてきた。 感染症や疫病に関する記録は、古代にあってはの『』にすでに四災厄のなかのひとつに数えられ、同時期のでもの威光は悪疫の年における厄病神に比較されている。 中国にあっても、におけるの刻されたからも疫病を占卜する文言が確認されている。 日本においてはには疫病の終息を願う神事が全国で行われていた。 レーウェンフック(1632-1723) にで活躍したはの地方における(ペスト)の流行において、・・への接触が発症の有無を左右していることを発見した。 これを受けて、(Ibn Khatima、 -? )は「感染症はがの体内に侵入することによって発症する」とのを打ち立てた。 この考えは、ので科学者のの著作『梅毒あるいはフランス病』()や『伝染病について』()により、期のヨーロッパにも広く受け入れられた。 フラカストロは伝染病のコンタギオン説(接触伝染説)を唱え、梅毒( Syphilis)やチフス( typhus)という病名の命名者となった。 病原体(病原微生物)について、それを人類が初めて見たのは、形態的にはのののによる細菌の観察だといわれる。 レーウェンフックのの改良により、細菌を肉眼で容易に観察できるようになった。 昔のを描いた旧の。 初期の感染症研究には顕微鏡の発達が不可欠であった。 に細菌を意味する " bacterium" が出現しており、病原体が現在のように判明してきたのは以降のことであって、のやのに負うところが大きい。 パスツールは、病気の中には病原体によって生じるものがあることを証明し、のワクチンを開発した。 そしてコッホは、、感染力のある病原体としての細菌であるを、光学顕微鏡を用いた観察によるものとして初めて発見し 、また、感染症の病原体を特定する際の指針として「」を提唱して近代感染症学の基礎となる科学的な考え方を打ち出した。 、、の3人はそれぞれ、やに有効なワクチンを開発し、後にそれぞれを地球上から根絶、もしくはほぼ制圧するために大きな一歩を踏み出した。 でも、がにを、はにを発見している。 なお、主な疫病菌の発見は以下の通りであり、19世紀後葉から20世紀初頭にかけての時期に集中している。 病名 発見年 病原菌発見者 () (フランス) 1880年 (ドイツ) (ドイツ) ロベルト・コッホ(ドイツ) ()(ドイツ) () ()(フランス)、(日本) (日本) ()(ドイツ) (フランス) (フランス) 光学顕微鏡では観察できない極小のウイルス virus の発見は、細菌よりも遅れ、ののによるの発見が最初であった。 フレミング(1881-1955) 細菌による感染症はに初のであるがイギリスのによって発見されるまで根本的な治療法はなく、による感染症に至っては患者自身の免疫に頼らざるを得ない部分が今なお大きい。 、ドイツのは初の広域合成抗菌薬であるを開発、発表した。 サルファ薬は生物由来ではないため、抗生物質とはされない。 抗生物質とサルファ薬の開発は、感染症治療に新しい地平を切り開いた。 抗生物質の普及やの義務化、の改善などによって感染症を過去の脅威とみなす風潮もみられたが、やによるの出現など、一時の楽観を覆すような新たな状況が生じている。 こうして感染症(伝染病)は長い間、人びとのあいだで大きな災厄ととらえられてきており、今なおその脅威は人類社会に大きな影を投げかけている。 災厄に対する人びとの対応は、歴史的・地域的にさまざまであったが、その一方で、人びとの行為・行動の背景となった疫病観、、、、の発達などを考察することにより、人類のや、のあり方への理解を深めることができる。 ペスト [ ] ヨーロッパにおけるペストの伝播(第二のパンデミック) はこれまでに3度にわたるをみている。 第1次は、6世紀の「ユスティニアヌスのペスト」に始まって8世紀末までつづいたもの、第2次は、14世紀に猖獗をきわめた「黒死病」から17世紀末にかけてのもので、では19世紀半ばまでつづいた。 そして第3次は、19世紀末から20世紀中盤までつづくものである。 とりわけ第二のパンデミックである「 黒死病」は、正確な統計はないが全世界で8500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2にあたる約2000万から3000万人前後、イギリスやフランスでは過半数が死亡したと推定されている。 ペスト菌の存在がわからなかった時代には大流行のたびに原因が特定の人びとにおしつけられ、が行われたり、特にユダヤ教徒をとして迫害する事件が続発した。 主な大流行(リスト) 年代 場所 推定死者数 備考 1347—51 欧州・アジア・中東 2500万~7500万 1360—63 イギリス 700,000~800,000 1464—66 パリ 40,000 1471 イギリス 300,000~400,000 1479—80 イギリス 400,000~500,000 1576—77 ヴェネツィア 50,000 1596—99 スペイン・カスティリア地方 500,000 1603—11 ロンドン 43,000 1620—21 アルジェリア 30,000~50,000 1628—31 フランス 1,000,000 1629—31 イタリア 280,000 1647—52 スペイン南部 500,000 1654—55 ロシア 700,000 1656—57 ナポリ・ローマ 150,000 1665—66 ロンドン 70,000~100,000 1675—76 マルタ 11,300 1679—80 オーストリア 76,000 1681 プラハ 83,000 1689—90 バグダッド 150,000 1704—10 ポーランド 75,000 1709—13 バルト海沿岸 300,000~400,000 1720年代 マルセイユ 100,000 1738—40 ハンガリーなど 50,000 1770年代 モスクワ 75,000 1772 バグダッド 70,000 1791 エジプト 300,000 1813—14 マルタ 4,500 1829—35 バグダッド 12,000 ハンセン病 [ ] (1181・82-1226) 生前にフランチェスコを描いたといわれる肖像 いっぽう、にによって組織された「小さき兄弟の会」()は中部のに「らい村」を建設した。 そこでは、1つの共同自治が目指され、聖書の精神にもとづく救済がおこなわれた。 の東方遠征においては、ハンセン病に罹患した兵士を看護するためがで組織され、のらい院では患者の救済がおこなわれている。 なお、英邁で知られるの国王はハンセン病患者として知られる [ ]。 日本では、・にはこの病気は仏罰・神罰の現れたると考えられており、発症した者は身分に編入されるという不文律があった。 これにより、都市では重病者が各地のや奈良の、鎌倉のなどの施設に収容され、衣食住が供された。 北山十八間戸や極楽寺は、「非人救済」に尽力したらによって開かれた施設である [ ]。 戦国武将はハンセン病患者であったことが知られ、面体を白い頭巾で隠して戦場に臨んだことはよく知られる。 また、での自らに対するの振る舞いに吉継が感激し、では三成に味方をする決意をしたとされるエピソードも著名である。 には、発症すると、家族が患者をやの公祠などのへに旅立たせることが多かった。 このため、これらの地に患者が多く物乞をして定住することになった。 旅費がない場合は単に集団から追放され、死ぬまでをしながら付近の霊場巡礼をしたり、患者のみで集落をなしてなどによって生活した。 貧民の間に住むこともあり、その場合は差別は少なかった。 をはじめとする(こじきやと)はその一例である。 また、患者が漁にでるとがよく獲れるというが各地にあり、患者にはに携わる者も少なくなかった [ ]。 以降、近現代になると、そうした患者の寺社周辺などへの集住状態を解消すべくへの隔離政策が行われ、そのなかで「救らい」の名目で近世までとは異なった形での患者の迫害が生じた。 、らい菌の発見者であるノルウェーのが英文で初めて発表をおこない、そののち感染症としての感染力の弱さが明らかとなり、また、治療法が確立してからも患者や既に治癒して身体の変形などの後遺症を持つのみとなった元患者への強制隔離政策は続き、非人道的な人権侵害が行われた。 に、首相が公式に謝罪し、治療法確立後も強制隔離をつづけた国の責任を認めて元患者との和解がようやく成立した。 しかし、今もなお病気に対する正確なの欠如から、後遺症に対するに苦しむ人が多い。 コロンブス交換と梅毒 [ ] 1498年のメディカル・イラスト 梅毒の原因にはが関係すると考えられた。 すなわち、、、、、、、(嗜眠性脳炎)、、、、などが、ユーラシアとアフリカからへもたらされた。 免疫をもたなかったはこれらの伝染病によって激減した。 アメリカ大陸には、やをはじめとしてヨーロッパ各地から多くの植民者がわたったが、スペイン王室は植民者に先住民支配の信託を与え、征服者や入植者に対し、その功績や身分に応じて一定数のを割り当て、一定期間使役する権利を与えるとともに、彼らを保護してにさせることを義務づけた。 これがである。 まもなく先住民(インディオ)を使役してで金や銀を掘り出し、域ではの栽培が始まった。 どちらも現地の人びとのためではなく、ヨーロッパ大陸におけるのための生産であった。 先住民は、過酷な労働条件と感染症のために激減し、深刻な労働力不足に陥った。 これを補うため、ヨーロッパ人は黒人をアフリカ大陸に求めてがはじまった。 ここに西ヨーロッパ、西アフリカ、南北アメリカ大陸を結ぶ人とモノの貿易連鎖、いわゆるが成立し、をはさむ4大陸のあいだに大西洋経済とよばれるが形成されていった。 いっぽう、アメリカ大陸よりにもたらされた感染症には、である、として知られる、、黄熱( American strains)がある。 梅毒は、元来はの風土病だったのではないかと考えられ、コロンブス一行が現地の女性との性交渉によりヨーロッパにもち帰ったとされる。 アジアへはの一行が頃インドにもたらし、日本には9年()に中国よりを通じて伝わったとされ、江戸時代初期にはの次男も梅毒に罹患している。 日本で流行する前に、とくにそので大流行し、古くから花柳界にいる人の罹患率が高かったので、梅毒は「古血」と称され、また、では梅毒患者のことを「 ふるっちゅ」(古い人)と呼ぶようになった。 なお、梅毒は、ヨーロッパ諸国も介入した16世紀のを通じてヨーロッパ各地に広がったため「 ナポリ病」と称することも多い。 「コロンブス交換」は、の歴史学者によって唱えられた用語である。 上述のように、それは、ヨーロッパとアメリカ大陸との相互の疫学的条件の均質化をうちに含んでいるが、これを、フランスのに属する歴史家は「細菌による世界の統一」という表現を用いて説明した。 ヨーロッパの疫病が新大陸で猛威をふるった顕著な例として、からにかけての(ノビスパニア)での大流行があり、このときメキシコ中央部では先住民()の約8割が死亡したといわれる。 征服から1世紀経ったのち、メキシコの先住民の人口は征服直前のわずか3パーセントにすぎなかったというもある。 梅毒の治療薬としては、を唱えたドイツのとエールリヒの研究所で薬学実験を担当していた日本の医学者がに発見したというが有名であり、これは合成物質による世界最初の化学療法剤であった。 また、サルバルサンの発見は、のちのペニシリン(1929年)等や、(1935年)等のの発見をうながしたのである。 麻疹 [ ] 麻疹ウイルス は一般に はしかといわれ、によって感染する。 感染力はきわめて強く、高熱、咳、鼻水、全身性の発疹をともない、口中にと呼ばれる白い斑点ができる。 日本でも古くから知られ、平安時代以降の文献にしばしば登場する「あかもがさ」は麻疹であろうと考えられている。 からへの改元のあった(正暦6年、長徳元年)に全国的なとなってを直撃、貴族も多数死亡して政治に混乱をきたした。 古来ほとんどの人が一生に一度はかかる重症の伝染病として知られ、かつては「命定め」とよばれて恐れられたため、全国各地に麻疹に関するが伝わっている。 富山県では「はしか」が流行すると九紋龍の手形の紙をもらい、「九紋龍宅」と書いて門口に貼って病除けにした伝承がのこる。 神奈川県や、に点在する(左馬神社、佐婆神社とも)を一日で巡る「七さば巡り」をおこなうと「はしか」やの病除けになるといい、愛知県や三重県ではの貝殻を戸口につるして「はしか除け」をしたという。 江戸時代の庶民にとって、地震や火事とともに怖れられたのが感染症であったが、とくに疱瘡(天然痘)・麻疹(はしか)・水疱瘡()は「」と呼ばれて恐怖された。 WHO では2015年3月27日、日本を麻疹の「排除状態」にあると認定した。 「排除状態」は、日本に土着するウイルスによる感染が3年間確認されない場合に認定される(2014年の流行などは、日本国外から持ち込まれたウイルスのため、判断に影響していない) 天然痘 [ ] 詳細は「」、「」、「」、および「」を参照 天然痘は、有史以来、高い死亡率、治癒してもを残すことから、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症である。 痘瘡ともいい、による高熱、、があり、全身に発疹する。 すでに1万年前にはヒトの病気であったらしい。 天然痘で死亡したと確認されている最古の患者はののであり、の頭部に天然痘の痘庖があることを確認している。 彼はに死亡したとみられる。 の遠征中のローマ軍のなかで発生し、こののち内で流行したといわれる伝染病は、こんにちでは天然痘であると考えられており、これによりローマは深刻な兵力不足に陥って、国力衰亡の原因のひとつとなった。 天然痘は以来、アジア各地で流行している。 中国では、ジェンナー(後述)による(牛痘)が試みられる前から、発疹の瘡蓋(かさぶた)を用いた人痘がさかんにおこなわれていた。 にした際、このウイルスを持ち込み、とあいまって先住民人口が激減する不幸な事態となった。 は、がに600人弱の部下で数百万の民を擁するを軍事的に征服したのみならず、文化的、精神的にも征服しえたのは、コルテス一行が持ち込んだ天然痘ウイルスによってアステカ王国の首都で天然痘が猛威をふるっていたにもかかわらず、従来のアステカの事物はそれに対しまったく無力であったことに起因するとしている。 のによるの征服も、それに先だって中央アフリカから帝代のの領域にもたらされた天然痘による死者が膨大なものであり、人口の60パーセントから94パーセントを失ったことによるとされる。 にはインカ皇帝のや宮廷の臣下たちの大部分が天然痘がもとで死んでいるが、後継者とされたもまた天然痘で命を落としてしまった。 そのため王位をめぐる争いがとの異母兄弟のあいだで起こった。 ピサロは、そこに付け込んだのである。 両帝国とも、や、をもたない軍事的敗北の結果といわれるが、それ以前に天然痘が猖獗をきわめたことにともなう帝国側の戦闘力喪失が最大の要因であった。 17世紀前半には東部ので天然痘が流行している。 また、18世紀のでは、によりとしてインディアン殲滅を目的に使用された例がある。 また、では、英国軍をカナダに追いつめてカナダがアメリカ合衆国領となる事態までとなったが、このとき独立軍に天然痘が流行したといわれる。 なお、も11歳のとき天然痘にかかり、その痕跡がいくつもあったといわれている。 種痘法を確立したジェンナー(1749-1823) 、で発達したの人痘接種法がヨーロッパに伝わったが、これは天然痘それ自体の発病の危険をともなうものであった。 、自らも人痘接種を受けたことのあるイギリスの医師が牛痘にかかった者は人痘にもかからないという農婦の話を聞き、種痘を開発して8歳の少年に牛痘を接種した。 これが世界におけるのさきがけであり、一種の人体実験でもあった。 ジェンナーは自身の幼い子どもにも予防接種をおこない、また、種痘の乾燥保存に成功した。 これ以降は種痘の普及に伴い急速に天然痘の流行は少なくなったが、ソ連の独裁者は顔にはっきりと痘痕が残っており、天然痘によるものとされている。 なお、アメリカ合衆国で最初に接種を受けた人物のなかに第3代大統領のがいる。 天然痘は、に WHO 総会で「世界天然痘根絶計画」が可決され、根絶計画が始まった。 には西アフリカ全域から根絶され、翌に中央アフリカと南米から根絶された。 、の3歳女児の患者がアジアで最後の記録となり、アフリカのとが流行地域として残ったが、、ソマリアのを最後に天然痘患者は報告されておらず、3年を経過したにWHOはを行った。 天然痘ウイルスは現在、アメリカとロシアの4の施設で厳重に管理されている。 天然痘は、ヒトに感染する物の中では、人類が根絶した唯一の感染症である。 ジェンナーの種痘 人びとは牛痘を人間に植え付けることに抵抗感をもち、普及には時間を要した。 日本でも、過去には定期的な大流行を起すことで知られていた。 年間にやを通じて侵入したと考えられる天然痘が西日本を中心に蔓延()し、(天平9年)、では政権を担当していたが相次いで死去した。 がを建立した背景にもや政治的混乱とならんで悪疫の流行があった。 摂関政治が隆盛期をむかえたにも大流行しての兄、、はともに天然痘のために死去したといわれる (ただし、前述のように麻疹とする説もある)。 また、百万遍に所在する(左京区田中門前町)は、京都に天然痘が大流行していた(元年)、の勅によりを行い疫病を治めたことから「百万遍」の寺号が下賜されたものである。 その後も歴史上の著名人物で天然痘に苦しんだ例は少なくない。 「独眼竜」の異名で知られる奥州の、が幼少期に右目を失明したのも天然痘によるものであった。 儒学者、「」のエピソードで知られるも天然痘による片目失明者であった。 に布教のため来日したのは、ヨーロッパに比して日本ではが多いことを指摘しているが、後天的な失明者の大部分は天然痘によるものと考えられる。 なお、江戸時代にあっては、疱瘡除けの神として、さかんにの肖像が描かれ、「疱瘡絵」(赤絵)と呼ばれた。 これは、八丈島に疱瘡(天然痘)が流行しなかったのは、この島に流された為朝が疱瘡神を押さえ込む力があったためと信じられていたためであった。 また、、、、は顔にあばたを残し、は両手の一部の指が大きくならず、結果的に小指より短くなるという障害を負った。 の急死は幕末の政局に大きな影響を及ぼしたが、これも天然痘によるものであったと記録されている。 天皇自身が当時かなり普及し始めていた種痘を嫌悪したために天然痘に対して無防備であったといわれているが、なお根強く暗殺説を唱える人もいる。 のは幼少時に発症しており、のちに種痘の普及による天然痘対策に尽力した。 これはやがて直轄のに発展し、のちの医学部の前身となった。 の患者を最後に、日本では天然痘は根絶されている。 コレラ [ ] "Le Petit Journal"(1912. 12) コレラを残忍な死神として描いている はによる感染症で、突然の高熱、嘔吐、、が起こり、その感染力は非常に強く、これまでに7回の世界的流行(コレラ・)が発生し、2006年現在も第7期流行が継続している。 最も古いコレラの記録は頃のものである。 そののちの、のでもコレラと思われる悪疫の記録があるが、世界的大流行はに始まっている。 コレラの原発地は下流のの、およびにかけての地方と考えられる。 にで起こったコレラの流行はアジア全域とアフリカに達し、まで続いた。 その一部は日本にもおよび、のちに「文政コレラ」とよばれたものである。 経由か経由かは明らかでないが、から東方向へひろがりにまでおよんだ。 このときはより東には感染せず、での被害はなかった。 からまでの大流行は、アジア・アフリカのみならずヨーロッパと南北アメリカにも広がり、全世界的規模となった。 以降、から、から、から、からと、計6回にわたるアジア型コレラの大流行があった。 この大流行の背景には、によって、など交通手段が格段に進歩し、また、をはじめ世界諸地域が経済的、政治的にたがいに深く結びつけられたことがある。 とはいえ、これほど短期間のうちに「」から「パンデミー(世界的流行病)」へと一挙に広がって人類共通の病気となった例はめずらしい。 、ドイツの哲学者はコレラ禍のためにで死去しており、にでコレラが流行した際には、辣腕政治家として知られた ()が死亡した。 このとき、パリでは毎日数百人もの人びとが罹病し、1,000人を越える患者が出る日もあった。 死亡率も高く、1日で800人もの人が命を失うこともあったという。 1832年4月、コレラが増えはじめたパリでは、だれかが毒を投げこんだという噂が飛びかい、毒殺犯人とみなされた人びとがにを受ける事件がおこっている。 この事件では数名が殺害されている。 コレラの流行したのヨーロッパでは至るところで毒殺説がささやかれ、なかには医師が疑われて殺害されたこともあった。 でもパリでも、病気はとに沿って広がり、ことに貧民街での被害が著しかった。 前半のコレラの流行は、19世紀初頭以来の急速な都市化の進んだ時期でもあり、ヨーロッパの大都市はどこも劣悪な衛生環境にあった。 コレラの猖獗によって、感染症は「人間の病」である以上に「社会の病」であることを多くの人が痛切に感じたのであり、そのなかから、社会の健康を考えるや上下水道の整備や道路拡幅なども取り込んだ近代的なという学問分野が生まれた。 また、イギリスの外科医はロンドンでのコレラ流行に際し、死亡者の生活状況をを用いてのという的な手法を用いて生活改善を提案し、これらの業績により「の父」と称される。 コレラ病棟(1892年、) 日本では2回目の世界的流行時には波及を免れたが、3回目の流行は再び日本におよび、が結ばれたから3年にわたって全国を席巻する大流行となった。 いわゆる「安政コレラ」で、検証には疑問が呈されているものの、江戸だけで10万人が死亡したといわれる。 このときの流行はからはじまり、江戸で大流行してにも広がった。 手当としては、と(からしでい)を用いるのがよいとされた。 2年()には、残留していたコレラ菌により再び大流行し、56万人の患者が出て、江戸では7万3000人が死亡した。 以後、に入っても2、3年間隔で万人単位の患者を出す流行が続き、、には死者が10万人台を数えた。 このうち、1879年の流行については、それに先だつから78年にかけてコレラの流行があったため、8月、各国官吏・も含めて共同会議で規則をつくったものの、のが、日本在住イギリス人はこの規則にしたがう必要なしと主張しており、翌79年の初夏にコレラが再びからに伝わり、などで大流行したものであり、この年、これに関連してが起こっている。 ヘスペリア号事件とは、西日本でのコレラ大流行を受けた日本当局が、1879年7月、ドイツヘスペリア号に対し検疫停船仮規則によって検疫を要求したところ、ドイツ船はそれを無視して出航、の護衛のもとへの入港を強行したという事件であり、このためコレラは関東地方でも流行して、この年だけで10万9000人の死者が出たというものである。 この事件は、国民のあいだに、を改正してを撤廃しなければの威信は保たれず、の安全やも守ることができないという認識を広める契機となり、要求の高まりをもたらした原因のひとつとなった。 日本がようやく海港検疫権を獲得するのは、に外相下でむすばれたなどの改正条約が発効したのことである。 なお、日本では、最初に発生した「文政コレラ」のときには明確な名前がつけられておらず、他の疫病との区別は不明瞭だったが、流行の晩期には商人から「コレラ」という病名であることが伝えられ、それが転訛した「コロリ」や、「虎列刺」「虎狼狸」などの当て字が広まっていった。 それまでの疫病とは違う高い死亡率、激しい症状から、「」「見急」「三日コロリ」などとも呼ばれた。 コッホ(1843-1910) にはの細菌学者によってが発見され、の発展、防疫体制の強化などとともに、アジア型コレラについては世界的流行は起こらなくなった。 ただし、アジア南部およびアジア東部においてはコレラの流行が繰り返され、中国では、、に大流行があり、インドではまでつづいて、いずれも万単位の死者を出すほどであった。 一方、エルトール型コレラはに(エジプト)ので発見された。 この流行はから始まり、を発端に、を中心に世界的な広がりをみせており、には南米ので大流行が発生したほか、先進諸国でも散発的な発生がみられた。 、日本でも、下で感染経路不明のエルトール型の集団発生が生じた。 また、に発見されたO139菌はインドとバングラデシュで流行している。 なお、1月初め、の首都から500キロメートル離れた積出港において、コレラの発生が確認された。 コレラの流行を防止するため、下水道の整備など大都市における政策が発達し、が普及し、体制が整備されて、その多くは現代にも引き継がれている。 また、科学的なも1854年のでのコレラ大流行において、が公衆の水が原因であると指摘したことがはじまりである(後述)。 コレラは反面、衛生的な近代都市の生みの親となったのである。 チフス [ ] かつらをかぶった(1689年) とはが媒介するによる感染症で、高熱、、が特徴である。 人口密集地域、不衛生な地域にみられ、冬期、または寒冷地での流行が顕著である。 、スペイン兵がから発疹チフスをもちこみ、ヨーロッパで流行し、にはで流行した。 17世紀以降、ヨーロッパの王侯貴族や裕福な中・上級市民の間で頭髪を丸刈りにしてをかぶるが大流行した背景にはシラミ予防の意味もあったという。 のの際にはで大流行し、大勢の死者を出した。 の発疹チフスの流行は、コレラとともに活発化の一因となり、各国は都市の改造や公衆衛生を徹底させるなどの都市政策をおこなった。 下のでは3000万人が罹患し、その1割にあたる人びとが死亡している。 また、による虐殺のための内でも大流行した。 フランスの細菌学者はの()において風土となっていた発疹チフスを研究し、病院に入院すると感染しない傾向がみられるから院内と院外の条件を比較して、患者の衣服に着目した。 ニコルはに発疹チフスの研究でを受賞している。 腸チフス・パラチフス [ ] 腸チフスやパラチフスは、のイタリアの数学者でもあり医者でもあったが発見者といわれているが、これはともにの一種であるチフス菌によるもので発疹チフスとは全く異なる条件下、異なる病原体が原因で起こるものであるが、症状が似ているため区別が遅れた。 にようやく両者の識別がなされて、別の疾患として扱われるようになった。 かつては「不治の病」「死の病」「」とされ、「 白いペスト」と呼ばれることもあった。 結核は太古より存在する病気として知られ、で出土したころの人骨に結核の痕跡が認められるものがあり、にはころの結核痕跡をともなう2体の人骨が沖で発見された。 また、ころののミイラには、骨の結核であるの認められる遺体がある。 末、で発見された前半の男性の骨から結核菌とのが見つかり、の時代のエルサレムの上流階級では結核がかなり流行していたことが確認された。 に発見された中国郊外のの1号墳に埋葬されたの女性のミイラからは結核病変を確認しており 、中国末の武将での英雄も死因は結核だといわれる。 また、に韓国南部の勒島(ヌクト)の遺跡から出土した若い女性の人骨の脊椎3か所にを発見した。 の音楽家で「ピアノの詩人」といわれたや『』で知られるも結核で亡くなっている。 日本における最古の結核症例は、に所在するのの発掘調査で検出した5,000体中の2点の脊椎カリエスの進行した人骨である。 の遺跡出土の人骨からは、結核痕跡が確認されていないので、現在のところ、における結核はアジア大陸から渡来した人びとによってもたらされたものと考えられる。 、は『』のなかで「胸の病」について書き記しており、の『』でもが胸の病を患い、が悲しむさまが描かれている。 のからは、のの(元弘の乱)の戦没者とみられる人骨が多数確認されているが 由比ヶ浜南遺跡の人骨は調査により合戦死のものではないことが判明している。 同項目参照。 合戦死と見られているのは稲村ケ崎の人骨 、このなかの1体よりカリエスにより変形したと結核菌DNAとを検出した。 50歳前後の男性と推定されている。 産業革命期イギリスの炭坑で働く少年労働者(18世紀) 結核は、後に「世界の工場」と呼ばれて繁栄したイギリスで大流行した。 最も繁栄を謳歌していたはずのころのでは5人に1人が結核で亡くなったといわれている。 当時のは賃金が低く抑えられていたうえに1日15時間もの長時間労働が一般的であった。 また、急激なへの人口集中によってが形成され、人びとは生活排水をなどのに投棄し、その川の水をして飲料水とするなど、生活環境も劣悪であった。 と栄養不足が重なり、抵抗力が弱まったことから結核菌が増殖し、非衛生的な都市環境がそれに拍車をかけたものと考えられる。 これは、一面では産業革命が各国へ拡大し、普及したことにともなってイギリス発で結核が広がることともなった。 初年、日本からイギリスへの留学生がそこで結核にかかり、学業半ばで帰国したり、亡くなったりするケースも多かったのである。 日本では、明治初期まで肺結核を称して労咳(癆痎、ろうがい)と呼んだ。 の、幕末の志士はともに肺結核のために病死した。 も結核を病み、喀血後、血を吐くまで鳴きつづけるというに自らをなぞらえて子規の号を用いた。 、、、、、、、、、、、、、、なども結核で亡くなっている。 ので振興に尽くしたの(28年)の死去も、死因は結核といわれている。 近代において、特に犠牲のひどかったのは、ではたらく女工であった。 の『』にみられるように、ここでも長時間労働や深夜業による過労と栄養不足、集団生活が大きな原因となっているが、工場内ではを保護するため湿度が高かったことも結核菌の増殖をおおいに助けることとなった。 日本で結核による死亡者が最も多かったのはであった。 このとき、人口10万人あたり257人が亡くなっており、1991年には人口10万人あたり2. 7人にまで低下したが長い間、日本人の「国民病」であった。 また、前は、され、狭い兵舎で集団生活を送る若い男性に結核が蔓延した。 からまでの15年間、日本の死亡原因の首位は結核であり、「亡国病」とも称された。 日本ではに須磨浦()に最初のが民間の手によって創設されたが、国立結核療養所官制の公布はようやくになってからのことで、それによってに最初の国立結核療養所として村松晴嵐荘(現在の)が営まれた。 セルマン・ワクスマン 結核については、の『』、堀辰雄の『』『』、の『』、の『』など結核患者やそれをめぐる人間関係、での生活などを題材、舞台にした小説も多い。 結核菌は、細菌学者ロベルト・コッホにより発見され、にはとワクスマン研究室の学生であったによるなどの抗生物質があらわれて 、結核は完治する病気となって、患者はいったん激減した。 しかし、近年、学校や老人関係施設、医療機関等での集団感染が増加しており、結核治療中の患者は日本だけで約27万人にのぼり、新たな結核患者が年間3万人も増加している。 世界保健機関 WHO の推計では世界人口60億人の3分の1にあたる20億人が結核菌に感染していると発表している。 これは、抗生物質の効かない耐性結核菌の発生によっており、「菌の逆襲」 とよばれることがある。 また、(AIDS)との結びつきが指摘され、「今や結核対策はAIDS対策でもある」 と考えられるにいたっている。 インフルエンザ [ ] スペイン風邪の患者でごった返すの(アメリカ合衆国・) の一種と考えられるは、、の兵士の間で流行しはじめ、人類が遭遇した最初のインフルエンザの大流行()となり、感染者は6億人、死者は最終的には4000万人から5000万人におよんだ。 当時の世界人口は12億人程度と推定されるため、全人類の半数もの人びとがスペイン風邪に感染したことになる。 この値は、感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、もっとも多くのヒトを短期間で死に至らしめた記録的なものである。 死者数は、の死者をはるかにうわまわり、日本では当時の人口5500万人に対し39万人が死亡、アメリカでは50万人が死亡した。 詩人、社会学者、画家、劇作家、作曲家、革命家、音楽家が亡くなっており、日本でも、元の、の設計を担当した、劇作家の、夫人の、皇族の、軍人のなどの著名人がスペイン風邪で亡くなっている。 「黒死病」以来の歴史的疫病で、インフルエンザに対する免疫が弱い南方の島々では島民がほぼ全滅するケースもあった。 1918年の警察(アメリカ合衆国・) 全員、をしている。 流行の第1波は、1918年3月に米国付近で最初の流行があり、の第一次世界大戦参戦とともに大西洋をわたって、5月から6月にかけてヨーロッパで流行したものである。 第2波は1918年秋にほぼ世界中で同時に起こり、がさらに強まって重症なを起こし死者が急増した。 第3波は春から秋にかけてで、やはり世界的に流行した。 日本ではこの第3波が一番被害が大きかった。 の病原性については、にアメリカのが、ブタにおこるインフルエンザが、プファイファーの発見したインフルエンザ菌とウイルスとのによっておこることを確認し、に、イギリスのとたちが患者からインフルエンザウイルスを分離し、を用いた実験によって証明して、病原体論争はおさまった。 さらに、スペイン風邪の病原体の正体は、のから8月に発掘された4遺体から採取された肺組織検体からやがてウイルスが分離されたことによって、ようやく明らかとなった。 これにより、であったことと、ウイルスに由来するものであった可能性が高いことが証明された。 つまり、スペイン風邪は、それまでヒトに感染しなかった鳥インフルエンザウイルスが突然変異し、受容体がヒトに感染する形に変化するようになったことが原因と考えられる。 したがって、当時の人びとにとっては全く新しい感染症()であり、スペイン風邪に対する免疫を持った人がきわめて稀であったことが、この大流行の原因だと考えられるようになったのである。 スペイン風邪におけるおもな死因は二次性の細菌性肺炎であったといわれる。 なお、アメリカ発であるにもかかわらず「スペイン風邪」と呼ばれたのは、当時は第一次世界大戦中であり、世界各国・各地域で諸情報が検閲を受けていたのに対し、は中立国であったため、主要な情報源がスペイン発となったためである。 一説には、スペイン風邪の大流行により第一次世界大戦終結が早まったともいわれている。 アジア風邪と香港風邪 [ ] 詳細は「」、「」、および「」を参照 の100年間でインフルエンザのパンデミックは3度あった。 上述のスペイン風邪、H2N2亜型ウイルスによるの 、H3N2亜型によるの である。 アジア風邪では、世界で200万人もの人びとが死亡した。 1957年の冬、中国のに発生し、中国全土に広がった。 中国の科学者はの分離に成功したが、当時、中国がWHOのインフルエンザ関係機関に加わっていなかったため、その情報が他の諸国に伝えられたのは、流行から2か月も経過してからであった。 このあいだアフリカや中南米に拡大し、欧米ではにはあまり広がらなかったがに入り、世界的に流行した。 日本での感染者は届出のあったものだけで98万3105人、死者は7,735人にのぼる。 香港風邪では、世界で100万人が死亡し、日本の死者は2,200人以上である。 H3N2亜型に属する新型ウイルスであった。 同時にH2N2亜型のものは姿を消した。 現在の季節性インフルエンザの原因の1つである。 その後、にはが(局地的流行)となった。 これまでパンデミックを起こしたインフルエンザウイルスは、いずれもに由来するものであり、しかも弱毒性のものであった。 今後、発生が心配されているのはの強毒性のものである。 世界保健機関 WHO の(イ・ジョンウク)元事務局長は「もはやが起こる可能性を議論する時期ではなく、時間の問題である」と述べており、、アメリカの大統領は、新型インフルエンザ対策を優先度の高い国家戦略とすると表明し、国際的な協力体制の構築を各国によびかけた。 2009年新型インフルエンザ [ ] 詳細は「」および「」を参照 21世紀にはいり、2009年にはがあった。 当初はおよびアメリカ合衆国での局地的流行であったが、2009年春頃から2010年3月にかけ、、のインフルエンザウイルスによるとして世界的に流行した。 WHOは2009年4月27日にフェーズ4を、2日後の4月29日にはフェーズ5を、6月11日にはフェーズ6を宣言した。 これは、21世紀に入って人類が経験するインフルエンザ・パンデミックの最初の事例となった。 日本では第6条第7項第1号において「新たに人から人に伝染する能力を有することとなったウイルスを病原体とするインフルエンザ」と規定され「」と命名されている。 ポリオ(急性灰白髄炎) [ ] 壁画にみられるポリオ ポリオは、に発症が多かったことから「小児麻痺(しょうにまひ)」の名でも知られ、日本での正式名称は「急性灰白髄炎」である。 ポリオの名称は、英語の poliomyelitis の前半部分(灰白部)に由来しており、である灰白部とに病変が生じるところからの名称である。 ポリオは、のを病原体とする感染症であり、の灰白質をおかすため、はじめの数日間はをひいたような症状があらわれるが、その後急にやがして動かなくなる病気である。 ポリオウイルスに感受性があるのはだけであり、はヒトだけである。 ポリオについても、その歴史は古く、(-)のに、片足が萎縮してをついた人物が刻されているが、これが症状からみてポリオであろうと推定されている。 日本では、の後期のから出土した女性人骨にポリオ痕跡の可能性が高い遺体が認められる が、日本へのポリオ流入は明治以降であるという有力な反論があり、定説には至っていない。 の貧しい家庭にとして生まれた ポリオの医学的な記載は、のの郊外の医師 ()によるものがはじめてであり、にはの ()によってポリオのでの流行について詳細な報告がなされたことより、ヨーロッパでは当初「ハイネ-メディン病」と称されたこともあった。 ポリオは、後半から前半にかけて諸国で大流行し、後は世界的に流行した。 ポリオウイルスに感染したとしても、後遺症として麻痺がのこるのは100分の1ないし1,000分の1といわれている。 は数多く、そのなかで麻痺がのこったのは不運なケースといえるが、その麻痺を克服して成人後に大きな業績を成し遂げた人も多い。 たとえば、委員長でありも経験した、の研究でのを受賞した、で女子短距離3種目(女子、、)でを獲得したなどが知られる。 日本では、、、後半から後半、(昭和26年)1月から6月にかけて、および(昭和35年)に流行している。 とくに1960年春の北海道にはじまった大流行では、全国で5,606人と日本史上最大の患者届出があった。 このとき、ワクチン接種を求める世論が大きな高まりをみせ、によるアメリカ製のか、製の弱毒のの投与しか解決のみえない状況となった。 効果においては生ワクチンの方が優れているが、当時の日本では生ワクチンの安全性は確認されておらず、国産の生ワクチンもなかった。 また、輸入するとしてものさなかにあってに属していた日本は乗り越えるべき課題も多かったのである。 そうしたなか、のは内の反対を抑えて「責任は大臣が持ちます」と宣言して(昭和36年)にソ連(および一部カナダ)からの緊急輸入が決定された。 、の()が生ワクチンを飲むすがたが放映された。 実は、このポリオ根絶の真の立役者はのちに日本社会党のとなったであったという。 NHK社会部の放送記者として活躍し、その後NHKのである日放労の委員長となった上田は、このときポリオ根絶をめざした「上田プラン」を唱えてNHKを動かし、厚生省を動かしたという。 生ワクチン輸入については、のちに監督の映画「われ一粒の麦なれど」の主題ともなっている。 日本では、こうして世界にさきがけて徹底した全国一斉投与(NID )をおこなって、それが実をむすんで患者数は(昭和38年)には100人以下に激減して、(昭和56年)以降は集団的なポリオの発生は確認されていない。 日本政府は(平成12年)にWHOに対し、ポリオ根絶を報告している。 車いす姿のF. ルーズベルト なお、ポリオ患者として有名であった人物に第32代のがいる。 にポリオに罹患したF. ルーズベルトはみずからの麻痺症状の治療のために、にのに土地を購入して別宅を建てた。 しばしば同地に滞在したため、別宅は「リトルホワイトハウス」と呼ばれ、4月にそこで死去している。 ルーズベルトは、みずからの障害体験から障害者支援には積極的で、大統領就任後、ポリオ対策のために国立小児麻痺財団( the National Foundation for Infantile Paralysis) を設立して活動をおこない、ワームスプリングスには彼の死後、ルーズベルトポリオ病院が建てられた。 ただ、かれ自身は日常生活においてを用いていたものの、その姿をにみられるのを嫌い、車いす姿の写真も2枚しか残っていない。 また、メディア側もあえてそのことを報道しなかったため、当時のアメリカ国民は大統領に麻痺があったことはほとんど知らなかったという。 ルーズベルトは実はポリオではなく、神経疾患であるであったという記事がアメリカ合衆国の医学情報誌に報告された。 それによれば、39歳という壮年に達してから発症したことや、彼の症状8項目のうちの6項目がギランバレー症候群に特徴的な症状を示し、ポリオを示す症状は2項目にすぎなかったことから、ギランバレー症候群であった可能性が高いということである。 ワームスプリングスのポリオ病院も、こんにちでは施設に変わっている。 近年、日本ではポリオ感染による障害者の数が増加し、深刻な問題となっている。 生ワクチンの投与は、上述のように、大流行時の緊急使用には際だった効果を有した実績があるものの、このワクチンによる免疫獲得率の低い世代が親になったこんにち、生ワクチンがむしろ小児麻痺の主な原因となっており、生ワクチンに使用されたウイルスが強毒化する事態も発生している。 被害者からは医療行政への抗議とともに不活化ワクチンへの切り替えを求める声が出ており、、の薬事・食品衛生審議会医薬品第二部会が開催され、承認申請が行われている不活化ワクチンのうち1種については製造・販売を行なっても問題ないとの結論が出て、同年9月1日よりポリオの定期接種は生ワクチンから不活化ワクチンに切り替えられた。 エボラ出血熱 [ ] にで流行した際のに収容された患者 は、6月ののヌザラ(Nzara)という町で倉庫番を仕事にしていた男性が急に39度の高熱と頭や腹部に痛みを感じて入院、その後、やから激しく出血して死亡したことを最初の確認例とするである。 そののち、その男性の近くにいた2人も同様に発症して、これを発端に血液や医療器具、を通して感染が広がった。 最終的にヌザラでの被害は、感染者数284人、死亡者数151人というものだった。 この最初の男性は、ザイール(現)の付近の出身で、森に深く入って炭焼き小屋に長く生活したことがあり、病原菌との関係が考えられるため、この病気を引き起こしたウイルスの名前を「エボラウイルス」と名づけ、病気も「エボラ出血熱」と名づけられた。 症状は全身の出血のほか、臓器のもある。 その後エボラ出血熱はアフリカ大陸で10数回にわたって突発的に発生・流行しており、感染したときの致死率は50パーセントから89パーセントの範囲にあって非常に高く、また有効な治療法もないことから非常に怖れられている。 ただし、のため、患者の血液に触れなければはおこらず、アフリカにおいては病院のや看護者を通じて感染が広がったものである。 この感染症は、熱帯雨林の開発によって人が新たな病原体に遭遇したもので、ガボンではから感染したといわれているが、ウイルスの自然宿主はまだわかっていない。 12月、の医学チームは、感染するが発病していないというを発見しており、宿主の可能性を報告した。 エボラ出血熱は2014年7月以降、、、など西アフリカ諸国で大流行し、死者は1,000名を超えた。 8月上旬には、この感染症の治療にあたった医療チームの外国人医師も感染した。 医療チームの米国人2名に対して投与された実験用の抗体治療剤「」に効果がみられたことから、この未承認薬の患者への投与承認を求める申請がWHOになされた。 また、この治療剤はアフリカ人医師にも投薬された。 一方、フランスでは、リベリアで医療活動中に感染して帰国した女性看護師に、日本のが開発したインフルエンザ治療薬・ファビピラビル(販売名・アビガン錠)が9月から投与され、快方に向かっていることが分かった。 この治療薬は、エボラ出血熱に対する承認は得ておらず、エボラ出血熱の患者への投与は初めてだった。 エイズ [ ] 6月にアメリカのに住む男性4人に初めて発見され症例報告された新興感染症である。 ただし、これはエイズと正式に認定できる初めての例で、疑わしい症例はすでにから報告されており、中部アフリカ各地などで「痩せ病」( slimming disease)という疾患群が報告されていた。 7月、この病気はAIDS(後天性免疫不全症候群)と名づけられ、にはが発見された。 1981年の症例報告後、わずか10年程度で感染者は世界中で100万人にまで広がった。 日本では、(昭和61年)の事件、(昭和62年)の事件・事件など「エイズ・パニック」と称される一連のパニックが引き起こされた。 これは、行政当局や医療機関のあり方に問題がなかったわけではなかったが、むしろパニックに仕立て上げていったのはマスメディアであった。 アメリカでエイズが広がり始めた当初、原因不明の死の病に対する恐怖感に加えて感染者に同性愛者や常習者が多かったことから、感染者に対して社会的なが持たれることも多かった。 アメリカは、「エイズ・パニック」を体験した最初の国であった。 現在は、病原体として(HIV)が同定され、による感染や時のも起こりうることが広く知られるようになった。 しかし、未だこの病気に対する知識の不足から来るや偏見がみられる。 日本では、おもにの患者に対して非加熱製剤を治療に使用したことから、多数のHIV感染者およびエイズ患者を生むをひきおこし、大きな社会問題となった。 それ以外でHIVに感染する可能性は、HIV感染者とのであるため、相手がHIVに感染していないことが確実でなければ性行為をおこなわないか、あるいはを用いて感染の可能性をなくすことが大切である。 また、早期に治療を開始するためには、が必要である。 エイズは、アメリカをはじめ世界各地で患者や感染者が増加しており、現代医療の大きな課題といえる。 各国でエイズ予防キャンペーンが繰り広げられている。 マラリア [ ] 蚊帳 の中での一部の種だけが病原体を媒介する。 のハマダラカが感染者の血液を吸い、別の人を刺すことによって広がる。 効果的なワクチンはないが、で治療できる。 においては、現在、エイズ、結核と並ぶ3大感染症のひとつであり、や聴覚を失うなどの後遺症で悩む人も少なくない。 感染者は毎年3. 5億人から5億人にかけてと推測され、アフリカでは子どもの主要な死因のひとつになっている。 3月にに流れた情報によると、、、にまたがる最大の湖は、年々水位が下がっており、係留していたと思われるが陸に上がってしまったり、湖岸であった箇所には幅10メートルないし20メートルの草地が続いていたという。 などの観測データは、ヴィクトリア湖の水位がピークのにくらべ1. 5メートルも低下しており、1990年代の平均と比べても約50センチメートル低くなっていると伝えている。 その原因としては、の減少と下流にあるへの過剰な流出が考えられている。 干上がりかけた水たまりにハマダラカのボウフラ(カの幼虫)が泳ぐなど蚊の繁殖に好適な水域が広がり、従来はマラリアが非流行地だったケニア西部のにも多発する傾向が顕著となっている。 また、の影響でハマダラカが越冬できる地域が広がったことにより、感染地域が広がる危険性についても指摘されている。 日本もマラリア対策に協力しているが、そのひとつに伝統的なづくりがある。 ウエストナイル熱・ウエストナイル脳炎と日本脳炎 [ ] の病原体であるは、に属し、その1属である狭義のは、(DEN)、(JE)、(TBE)、(YFV)の4グループに分類され、そのうち、日本脳炎ウイルスのグループを構成するのは西ナイルウイルス(WN)、(SLE)、(MVE)、(KUN)、そして狭義の日本脳炎ウイルス(JE)の5ウイルスである。 ウエストナイル脳炎 [ ] ウエストナイル脳炎の発生と前後して大量死が確認された( Corvus brachyrhynchos) 西ナイルウイルスは、その名のとおり西ナイル地方(の西)で見つかった。 19世紀末、イギリス領()南部の西岸地域を西ナイル地方と呼んでいたが、この地方は一時期に属し、にはイギリス領に編入されて西ナイル州とされた。 西ナイルウイルスは、、の研究者がウガンダの西ナイル州の女性の熱病患者から単離したウイルスである。 従来、日本脳炎ウイルスグループにおいては、世界地図上でのみごとな地理的棲み分けがなされていた。 狭義の日本脳炎ウイルスがインド以東の・、マレーヴァレーウイルスが一部の東南アジア、クンジンウイルスが、セントルイス脳炎ウイルスが、そして西ナイルウイルスが発見地のほか、、、、、の各地である。 で西ナイルウイルスへの警告を呼びかける(、) このような地理的棲み分けに対し、異変が生じたのは、のことであった。 内の病院のが2例の患者症例を報告し、その後、市保健局の調べによって他に6例の脳炎患者をクイーンズ区内で確認した。 ヒトにおける脳炎の流行に相前後して、ニューヨークでは大量のが死亡していた。 から9日にかけては(ニューヨーク市)で2羽のと、とそれぞれ1羽の死亡が確認された。 当初、ヒトやの死亡はセントルイス脳炎ウイルスによるものと診断された。 しかし、その後、(CDC)の調べで、ヒト、トリ、より分離されたウイルスは西ナイルウイルスであることが判明した。 従来、西ナイルウイルスはアメリカ大陸にはまったく存在しないと思われていたので、この事実は米国全土に衝撃をあたえた。 以後、2010年現在までアメリカ全土で西ナイルウイルスが見つかっている。 このウイルスを病原体とする・の最多患者数を記録したには、合衆国だけで患者9,862人、死亡264人が報告されており、この年はさらに隣接する、両国への広がりも確認された。 媒介する蚊は、などの仲間を中心に13種(にはさらに増加して60余種)、である鳥類ではカラス、、、、など220種以上におよぶから西ナイルウイルスが分離された。 でふれたように、従来、にので死去したの(大王)は、そのという症状やからの帰還での死という地理的要素から、古来、死因はであると考えられてきた。 しかし、、アレクサンドロスの死は西ナイルウイルスによるではなかったかという学説が登場した。 その根拠は、古代のバビロンが現代の西ナイルウイルスの流行する分布域に属していることのほか、からにかけて活躍した著述家の『』(「プルターク英雄伝」) のなかの以下のような記述である。 アレクサンドロスがバビュローンに入ろうとしている時に、(中略) 城壁のところまで行くと、多くのカラスが喧嘩をして互いにつつきあい、その内幾羽かが大王の足元に落ちた。 公的な記録によれば、アレクサンドロス大王は高熱を発してずっと熱が下がらず、そのあいだ激しくが渇いてを飲み、うわごとがはじまって、発熱後10日目に亡くなったといわれる。 これらの症状は、ウエストナイル熱やウエストナイル脳炎の症状と矛盾しない。 動物媒介性の感染症の新たな出現や伝播は、やによるや文物の大量移動を基礎として、たとえば・やなどによって媒介動物である蚊の生息条件が変化して分布域が変動・拡散し、また、その宿主の生息域が変動するなどの事象によっており、「感染症の生態学」と呼ぶべきひとつの研究領域が成り立つような条件を生じさせているが、他方では、アレクサンドロスの死因のように、過去にさかのぼって史実の解釈さえ再検討の俎上に乗せる可能性を有しているのである。 日本脳炎 [ ] 詳細は「」を参照 ( Japanese encephalitis)は、日本脳炎ウイルスによるであり、日本や東アジア、東南アジアを分布域とする。 感染者の発症率は0. 1パーセントから1パーセントと推定されており、そのほとんどがである。 日本でのは主としてといわれるが、地域では他の蚊も媒介する。 潜伏期は6日ないし16日間とされ、高熱を発して、や意識障害におちいる。 発症してからはにたよるしかない。 発症した場合の致死率は10ないし20パーセント程度と推定されるが、発症者の半数以上はにダメージを受け、脳障害や身体のなどの重篤ながのこる。 (昭和29年)、日本ではの勧奨接種が開始され、(昭和40年)には高度精製ワクチンの使用がはじまった。 日本での患者は、(昭和42年)からにかけての積極的ワクチンの接種によって、劇的に減少したといわれている。 日本住血吸虫症 [ ] 日本住血吸虫卵 日本住血吸虫症は、・・等でみられるの一種で、(オンコメラニア)というをとして成長した()が経皮感染によってヒトや、などに感染することによって発生する感染症である。 日本では特に下で「」と称されて地域特有の奇病と見なされ、古くから底部一帯が国内最大の罹病地域として知られてきた。 にがでこの寄生虫を発見し、にと鈴木稔がにおいて、寄生虫の中間宿主がオンコメラニアであることを発見したため、病名に「日本」の名が付されることとなった。 中国の代の墳墓であるのから日本住血吸虫の生活痕跡を検出したことから、中国において、この感染症の流行はきわめて古くからのものであることが確かめられている。 中国では、初頭、をふくむ流域や、、など広汎な地域で日本住血吸虫症の流行が顕在化し、患者数は約3200万人にのぼったと推定される。 では、建国以来、大衆動員によって古いを埋め立て、新しいクリークを開削する方法によってオンコメラニア対策が採られ、には、での成功にちなんで、当時のの指導者は「(瘟神を送る)」と題するをつくっている。 日本住血吸虫症は、こんにちでも中国やフィリピンを中心に年間数千人以上の新規感染患者が発生しているが、日本ではに発生した山梨県の罹患者を最後に新規感染者が確認されておらず、にはのによって「地方病終息宣言」が出された。 コロナウイルス [ ] SARS 2002-2004年 [ ] のSARS治療医院(2004年) 20世紀にはいると、次々と新しいウイルスが登場したが、 通称SARSウイルス はに見つかったウイルスであり、それによる感染症は SARS と呼ばれる。 高熱、、息切れ、、低酸素血症あるいはなどの症状をともなう。 にので40歳代の農協職員が発症した例が最初とされたが、呼吸病研究所は最初の患者は7月にさかのぼると発表している。 11月の発症後、中国政府はこの疾患が広まらないよう対処するいっぽう、世界保健機関 WHO にこの情報を知らせたのは2月であり、自国の名誉と信用をまもるためを規制した。 秘密にした結果、国際的な対応が遅れ、被害を拡大させてしまったため、中国政府はのちにこのことを謝罪している。 2003年4月3日、日本政府はSARSを新感染症として取り扱うことを発表、さらに4月17日、原因が判明したため指定感染症へ切り換える方針を発表した。 4月上旬、SARSが大問題としてで取り扱われている頃、中国政府の公式方針は変わったが、の軍病院で実際の患者数より少なく発表していたのが判明したのもこの頃である。 国際世論の強い圧力ののち、中国政府はWHOなどのがこの件に関する調査をおこなうことに同意した。 これにより、過度の分散、形式主義、コミュニケーションの不足など、中国医療制度の古い体質が暴かれた。 4月下旬、中国政府は患者数のごまかしが医療制度上の問題であることを認め、博士は中国政府のもみ消しを暴露した。 こののち、北京市長や保険局長を含む多くの人が解任され、ようやくSARS調査と予防に向けた効率的で透明なシステムがつくられるようになった。 2003年7月5日にWHOはSARS封じ込め成功を発表した。 MERS 2012年- [ ] ジョン・スノウの調査結果 コレラによる死者(黒点)の分布から規則的なパターンが読み取れる。 スノウはコレラの原因がブロード街の中央にある手押し式の井戸であると判断した。 最終的には、手押し井戸のポンプのレバーを取り外すことでコレラが収束した。 後年の調査によると、肥料に用いるために備え付けられていた汚水溜めに1854年8月末の最初の患者の糞便が混入したこと、汚水溜めと問題の井戸が90センチメートルしか離れていなかったことが判明した。 の起源は古く、都市の起こりによって汚染水や塵芥の処理がなされないまま放置されると伝染病が発生することが、いわゆる「」(説)として知られていた。 古代に起源をもつの多くは、日常の食物や・性的関係の制限、清浄さの維持など、健康のための習慣づけを規範や教義として内包していることが少なくない。 古代ローマでは、適切な汚物の排出は都市における公衆衛生の常識として理解されていた。 また、ヨーロッパで黒死病が流行した14世紀には、死体を遠ざけておくことが感染を遠ざけると信じられた。 近代的な公衆衛生の概念は、19世紀のヨーロッパにおいて、産業革命後の急激な都市化にともなう住環境の悪化などが感染症の蔓延と結びついているものと考えられ、それに対応していくなかで発展してきた。 また、科学的なはのでのコレラ大流行において、公衆の水が原因であるとジョン・スノウが発見したことを嚆矢としている。 スノウは当時主流であった瘴気説に対抗してを説いた。 コレラはの不足によって生じると考えた従来の瘴気説では、コレラの流行は自然発生的なものと考えられ、臭気が疫病をもたらすとされていた。 しかしスノウは、同じ流行地域でも罹患者の分布は斑状に分散していること等の知見に注目して空気感染説に疑問を持ち、「汚染された水を飲むとコレラになる」という「仮説」を立てた。 スノウは、患者が多数発生した地区で発生状況の精査をおこなったうえ、ある井戸が汚染源と推測、あてはまらない事例についても調査をおこなった。 当時、ロンドンの水道会社はから取水していたが、当時のテムズ川は汚濁がひどく衛生的とはいえなかった。 スノウは患者発生マップと各水道会社の給水地域との比較照合を行い、特定の水道会社の給水地域においてコレラ患者が多発していることを突き止めた。 同社の取水口は投棄の影響を受ける位置にあったのである。 最終的に、行政当局がこの結果にもとづき、問題の井戸を閉鎖したことにより流行の蔓延を抑えることができた。 19世紀前半までのパリもまた悪臭に満ちた不衛生な都市であった。 の時代、を管轄するの県知事となったは、皇帝の命を受けて、首都の「美化」を主眼とするをおこなったが、同時に見えない部分に対しても「浄化と衛生化」のための都市改造をおこなった。 オスマンは、主要な道路を拡幅し、水については、遠隔地から水源水を導いて配給して各戸給水を目指し、また、式の網を首都の地下に張り巡らせた。 ウジェーヌ・ルネ・プベル 、パリではチフスが大流行して3,352人の命が奪われ、また、から84年にかけては約50年ぶりにコレラが再びパリで流行し、にはコレラによる死亡者が986人に達した。 この頃、共和派のセーヌ県知事として就任したのが、である。 プベルは赴任1ヶ月後の1883年11月、知事令により(製の箱ないし)の使用を義務づけた。 県知事令は全11か条で、ゴミ箱の形状や容量はもとより、設置場所をも細かく規定したものであった。 同様のは1884年3月にも発布され、これらにより、市民にはゴミの分別が義務づけられ、また、出されたゴミは当局が回収していくしくみが制度化された。 従来の、にを流して路上の塵芥を一掃する方式に加え、ゴミ箱を徹底的に利用する方式は大きな効果を挙げ、パリのゴミ処理問題は長足の進歩を遂げた。 プベルによってパリ市民にもたらされた新しいはなどのマスメディアからも支持された。 こうして、不衛生都市パリの汚名は返上され、衛生的な都市として生まれ変わった。 の「プベル( poubelle)」は「ゴミ箱」を指すとして現在定着している。 しかし、ゴミ箱方式は、分別や管理にともなうを節減したいや、生活への脅威を感じた的な業者やからの抵抗を受けている。 の「パリ大悪臭」とそれにつづく感染症の大流行は、一方では下水道の大幅な改造をもたらした。 プベルらが進めようとすると糞尿、水、などを一緒に排水するトゥ・タ・レグ(すべてを下水へ)の方式には、多くの根強い反対論があり、その採用に至るまでには紆余曲折があった。 とくに、ジョルジュ・オスマンは自らの傑作である回廊式下水道を糞尿で汚染されることに強い嫌悪感を示したといわれている。 しかし、コレラが再び流行し、このことは、建物を直接に接続させた際に生ずる費用を家主や管理者が負担するの条例の発布につながった。 こうして、全廃水下水道放流方式すなわちトゥ・タ・レグ方式の下水道システムが整備されたのである。 日本では、明治の以降の近代的な「公衆衛生」に相当する概念として、当時医学の諸制度はドイツを手本としていたため、の Hygiene(ヒュギエーネ)の概念がないしとして受容されたが、イギリスの制度も参照された。 このころ、はヨーロッパを視察し、生命や生活を守る概念として Hygieneが社会基盤の整備を内包し、国家や都市を対象としていることから、その和訳について、あえて「養生」ないし「健康」「保健」を転用せず、『』庚桑楚篇にある「衛生」の語をあてている。 明治政府は、その初期においては(明治7年)にを公布し、各地方に医務取締を設置、その後(明治12年)には中央衛生会(地方には衛生課)を設置、によって衛生委員を置くなどの体制を採用した。 しかし、(明治19年)、このような民主的なシステムは廃止され、1893年(明治26年)には衛生医院の機能をに移管、式になった。 これは、日本の中央集権型行政の進展を意味するとともに、いっぽうでは、急速な感染症拡大への手早い対応をめざしていたためでもあった。 日本ではからの支援もあってが昭和初年に発足している。 なお同衛生院第2代院長の古屋芳雄は、公衆衛生を「公衆団体の責任に於いて、われらの生命と健康とを脅かす社会的並びに医学的原因を除き、かつわれらの精神的及び肉体的能力の向上をはかる学問及び技術」としている。 感染症と現代 [ ] 詳細は「」、「」、および「」を参照 1980年、WHOは天然痘の根絶宣言を出した。 人類は、医学の進歩や公衆衛生事業の進展により、近い将来、感染症を撲滅することができるだろうとだれもが楽観した。 しかし、実際にはエボラ出血熱や(HIV)の登場などにみられる新たな感染症()の登場や、結核・マラリアなどいったんは抑制に成功したかにみえたが再び流行した感染症()の時代をむかえている。 さらに、医薬品に抵抗力をもつ、さまざまなも出現している。 病名 病原体 発見(確認)年・国名 症状 感染経路 ・ 全身出血、壊死 ・の接触 AIDS (HIV) ・ 全般的な免疫力低下 、など ・アメリカ合衆国 、低下 ・アメリカ合衆国 不振、、など 血液・体液の接触、 ・ 進行性の、行動異常など 牛の・などの摂取 トリインフルエンザウイルス ・ 、、多臓器不全 病鳥およびその内臓・への接触 SARS() ・中華人民共和国 発熱、咳、症状(呼吸困難など) 、 上表は、以降に発見された新興感染症のなかで主要なものである。 感染症が再び問題となってきた背景としてはまず、人やモノの移動が大量かつ短時間におこなわれるようになったことがあげられる。 中国南部を起源とするSARSがわずかな期間で世界中に広がったことはの利用により人びとの移動が活発化したこと、さらには世界経済の一体化が進行していることとも深い関係がある。 次に、の開発により、人類が新しい病原体と出会うようになったことがあげられる。 エボラ出血熱などが、そうした事例に属する。 薬剤耐性菌の出現に関しては、医療現場で抗生物質が過剰に、または不適切に使用されたり、患者が自己判断で服用・投与をやめたりすることも原因のひとつと考えられている。 さらに、インフルエンザの流行などでは、感染症にたいする警戒感が弱まり、などが十分でなくなってきたことが指摘されている。 麻疹やに関しても、予防接種の未接種などによって十全なが獲得されないことが流行の要因と考えられ、そのため現在では基本的に2回接種することとしている。 (へのワクチン注射) 感染症にかかわるこうした時代状況は「細菌の逆襲」 、「疫病の時代」 などとも呼ばれている。 21世紀にはいってからも、SARSが出現して世界的に猛威をふるった。 将来的には、農業開発にともなう土地開発、環境破壊、都市化・工業化もふくむ環境変化によって、こうした新興感染症が今後も現れるであろうことが予想され、また、再興感染症もふくめて感染症を撲滅することは難しいという見通しが立てられている。 このような状況にあって、必要なことは、過度に恐れることではなく、適度に恐れることであるという認識 、あるいはむしろ、感染症との「」がはかられるべきではないかという認識も広がっている。 WHOは、パンデミックによる被害を軽減するために、• 医療体制(抗ウイルス薬治療をふくむ)• ワクチン• 公衆衛生対応• 個人防御 の4点を組み合わせて実施することの必要を呼びかけている。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• David W. Tschanz, MSPH, PhD August 2003. "Arab Roots of European Medicine", Heart Views 4 2. Syed, Ph. 2002. "Islamic Medicine: 1000 years ahead of its times", 2, p. 2-9. Beretta M 2003. Medicina nei secoli 15 2 : 129-54. (国立療養所菊池恵楓園)• 原出典は、Crosby,A. F;"The Columbian Exchange" 1972• 原出典は、Emmanuel Le Roy Ladurie"Le territoire de l'historie" 1973• Bland, R. ; Clarke, T. ; Harden, L. 1976-02-01. American Journal of Obstetrics and Gynecology 124 3 : 263—267. 原出典は、梁其姿"施善与教化—明清的慈善組織" 1997• 加藤茂孝「人類と感染症の戦い-第5回"ポリオ"」(2010)。 原出典は、Godman AS et al:What was the cause of Franklin Delano Roosevelt's paralytic illness? Journal of Medical Biography. 11:232-240 2003• 2012年8月31日. 2012年9月1日閲覧。 [ ]• - 中央日報 2014年8月6日• 加藤茂孝「人類と感染症の戦い-第6回"ウエストナイルウイルス"」(2010)。 原出典は、JS Marr et al:Alexander the Great and West Nile Virus Encephalitis. Emerging infectious Diseases. 9 12 , 2003• 訳、より。 原出典は、「中国における日本住血吸虫症」 1995• 2011年7月30日閲覧• 『標準微生物学』中込治・神谷茂(編集)、医学書院、2015年2月15日、第12版、p. 498. ProMED-mail,2012-09-20 15:51:26• 15 May 2013 ,Global Alert and Response(GAR)• Word Health Organization. 2020年1月16日閲覧。 World Health Organization. 2020年1月16日閲覧。 WHO. 2020年1月27日閲覧。 このウイルスについて、日本のは単に「 新型コロナウイルス」と2020年1月時点で呼称している。 www. mhlw. 日本厚生労働省. 2020年1月27日閲覧。 2020年1月5日. 2020年1月7日時点のよりアーカイブ。 2020年1月6日閲覧。 26-56• 参考文献 [ ]• 『食品衛生』〈共立全書〉、1952年6月。 『プルターク英雄伝 9 - アレクサンドロス、カエサル、フオーキオーン、小カトー -』訳、〈〉、1956年5月。 『根絶-世界初のポリオ発生ゼロを実現したロマン・ドキュメント-』〈いるか叢書〉、1967年。 『川柳医療風俗史』、1972年。 ・・ほか「第10章 日本資本主義とアジア」『日本の歴史5』家永三郎(編)、〈ほるぷ教育体系〉、1977年11月。 「条約改正」『日本歴史大辞典第5巻 さ-し』日本歴史大辞典編集委員会(編)、、1979年11月。 『ペスト大流行——ヨーロッパ中世の崩壊』岩波書店〈〉、1983年3月。 『科学の事典 第3版』岩波書店辞典編集部(編)、岩波書店、1985年3月。 『疫病と世界史』訳、、1985年5月。 『明治ニュース事典第7巻(明治36年-明治40年)』(編)、毎日コミュニケーションズ、1986年1月。 「感染症」『世界大百科事典 第6(カヘナ-キス)』、1988年。 『エイズと生きる時代』岩波書店〈岩波新書〉、1993年3月。 『クロニック世界全史』・・・監修、、1994年11月。 「都市と衛生」『クロニック世界全史』樺山ほか監修、講談社、1994年11月。 「疾病と文明」『クロニック世界全史』樺山ほか監修、講談社、1994年11月。 福田眞人『結核の文化史ー近代日本における病のイメージ』名古屋大学出版会、1995年2月。。 『細菌の逆襲——ヒトと細菌の生存競争』中央公論社〈〉、1995年3月。 『ペストの文化誌-ヨーロッパの民衆文化と疫病-』〈〉、1995年8月。 ・村上陽一郎・ほか『疾病の時代』酒井シズ(編)、、1999年2月。 『銃・病原菌・鉄 (上)』訳、、2000年10月。 『日本の近代16 日本の内と外』中央公論社、2001年1月。 福田眞人『結核という文化ー病の比較文化史』(中公新書)中央公論新社、2001年11月。。 『ビジュアル・ワイド 江戸時代館』監修、小学館、2002年12月。 「エボラ出血熱」『日本大百科全書』(編)、小学館〈スーパーニッポニカProfessional Win版〉、2004年2月。 「麻疹」『日本大百科全書』小学館(編)、小学館〈スーパーニッポニカProfessional Win版〉、2004年2月。 「病の中国史-インデックスとしての疾病-」『世界史の研究 208号』、2006年8月。 『感染症と免疫のしくみ』、2007年7月。 福田眞人 『北里柴三郎ー熱と誠があれば』(ミネルヴァ日本評伝選)ミネルヴァ書房、2008年10月。。 ジョン・ケリー『黒死病 ペストの中世史』訳、、2008年11月。 ・『パンデミックとたたかう』岩波書店〈岩波文庫〉、2009年11月。 『骨から見た日本人 古病理学が語る歴史』講談社〈〉、2010年1月。 『ワクチンと薬の発見—牛痘から抗生物質へ—』訳、〈人がつなげる科学の歴史〉、2010年3月。 石坂尚武編訳 『イタリアの黒死病関係史料集』 刀水書房 2017年12月 関連項目 [ ].

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エイズの起源 ジャック・ペパン著 アフリカでの種を超えた感染 :日本経済新聞

エイズ の 始まり

2018年02月22日 改訂 後天性免疫不全症候群(acquired immunodeficiency syndrome, AIDS, エイズ)は、ヒト免疫不全ウイルス(human immunodeficiency virus;HIV)感染によって生じ、適切な治療が施されないと重篤な全身性免疫不全により日和見感染症や悪性腫瘍を引き起こす状態をいう。 近年、治療薬の開発が飛躍的に進み、早期に服薬治療を受ければ免疫力を落とすことなく、通常の生活を送ることが可能となって来た。 とはいえ、2016年末現在、日本での新規感染者及びAIDS患者数は累計で2万7千人を突破した。 また、世界中で感染者はおよそ3670万人、年間180万人の新規感染者と100万人のAIDSによる死亡者が発生している事実から考えると、いまだ人類が直面する最も深刻な感染症の一つと言っていい。 はじめに 近年HIV感染症に対する治療薬や治療方法の進歩により、感染者の予後は飛躍的によくなった。 国連合同エイズ計画(UNAIDS)によれば2016年の世界の新規HIV感染者数はいまだ180万人を数えるものの徐々に減り始めており、HIV新規感染が2010年当時より40万人減少し、死亡者数は年間100万人であるが、2010年よりは50万人も減っているという事実は、HIVに対して人類の反撃が功を奏してきているといっていいであろう[1]。 これは、2011年にHPTN052試験の結果で、早期治療開始で感染を防止できる「Treatment as Prevention TasP 」つまり、「治療による予防」が現実的方法であるという報告がなされたため[2]、世界保健機構(WHO)やUNAIDSが旗振り役となり発展途上国にも治療薬を行き渡らせようとする運動が急速に広がったことが大きく関係している。 その結果、感染者における治療を受けている割合が、2010年の23%から2016年は53%へと劇的に増加した。 特に子ども(15歳未満)の新規感染はこの6年で30万人から16万人と47%減少したことは特筆すべきことである。 日本も最近10年間は新規感染者数が横ばいの状況にあるとはいえ、毎年1500人前後の新規感染者及びAIDS患者が発生しており、2016年には累計で2万7千人を突破した[3]。 一方で、新薬が次々と発売され、一日一回しかも一錠飲めばいい薬も次々登場し、診断がつけば治療によりウイルスの増殖を抑制することは(少なくとも先進諸国では)それほど難しい時代ではなくなりつつある。 しかし、治療を中断するとどんなに長期間ウイルス増殖を抑制できていたとしても、あっという間にウイルスの活性化が起こり、CD4陽性T細胞が減少しAIDS発症へと至る事だけは、30年前から何も変わっていない。 しかも長期治療症例のなかには、ウイルスの抑制が良好であるにもかかわらず、通常より若年で癌や認知障害や骨粗鬆症などがみられるケースが増えて来ている。 このことは、長期予後を視野に入れた治療薬の選択が今後非常に重要になってくることを意味している。 前々々回()、前々回 、前回 に引き続き、今回(2018年2月)『AIDSとは』の項の改定をおこなった。 これまでの改定と同様に基本的なHIVの知識と最新の知見とをバランスよく配置することを心がけた。 疫学 (松岡 佐織、草川 茂) 1)世界のHIV感染動向 2017年7月に国連合同エイズ計画(UNAIDS)は2016年末時点での世界のエイズの流行の現状に関する報告書を発表した。 この報告によると世界のHIV感染者数は3670万と推定される。 新たな感染及び死亡者数は減少傾向にあるものの、2016年の1年間に新たに180万人がHIVに感染し、100万人がエイズ関連疾患で死亡した。 そしてエイズの流行が始まって以来およそ7610万人がHIVに感染し3500万人がエイズ関連の疾病で死亡したと考えられる[1]。 2)日本国内のHIV感染動向 HIV感染症は感染症法に基づき発生報告が義務づけられている第5類感染症である。 国内HIV感染発生数は厚生労働省エイズ発生動向委員会に報告され、この報告数が新規HIV感染・エイズ報告件数として公開されている。 2016年の新規報告数は1448件(新規HIV感染者が1011例、新規エイズ患者は437例)となり、日本人国籍男性の同性間性的接触による感染が約6割を占めた( 図1a)。 調査を開始してからの累計報告数(凝固因子製剤による感染例を除く)は2. 7万件を超えた( 図1b)。 新規報告数が毎年増加していた2000 年代前半と比較して新規報告数は横ばいの状態が続いている。 一方でHIV感染症は無症候期の長い慢性感染症であるため、生体内でHIV感染が成立してもが受診・検査行動に結びつかない場合は、感染者として把握・報告されない。 実際、HIV感染後エイズ発症まで一般には5年以上を要するにもかかわらずエイズ発症により初めてHIV感染が判明する例(いわゆる「いきなりエイズ患者」)が毎年400件以上(新規HIV報告数の約3割)報告されている。 したがって、実際の国内HIV感染者数は報告件数を大幅に上回っているとことが懸念される。 HIV感染症は適切な治療によりエイズの発症を抑えることができることからHIV感染を早期に発見することが重要であり、同時に社会全体の感染拡大防止に繋がる。 厚生労働省エイズ動向委員会に報告された日本国内のエイズ発生動向[3]。 a 新規HIV感染者(無症候性キャリア)及び新規エイズ患者(いきなりエイズ患者)報告数の年次推移。 b 累計報告数の推移 3)サブタイプ分類 HIVは、そのゲノムの構造の違いから HIV-1とHIV-2に分類され、HIV-1は遺伝学的系統関係からグループ M、N、O、P の4つに大別される( 図2a)。 現在の世界的流行の原因ウイルスは、HIV-1グループMに属するウイルスである。 これらはさらに A-D、F-H、J、Kの9つのサブタイプ、さらにこれらの組換えゲノムを持つ組換体に分類される。 この組換体のうち、ある地域における流行に重要な役割を果たしているものを組換型流行株(Circulating Recombinant Form、CRF)、それ以外のものを Unique Recombinant Form(URF)と区別する( 図2a)。 一方我が国では、2003年から2008年に収集された臨床株の87. a HIVの分類。 (Hemelaarら, AIDS, 2011, 25: 679-689の図を改変。 (Hattori ら, Antiviral Res, 2010, 88: 72-79のデータから作成。 [4]) <最近の話題:国内におけるHIV-2感染例> 平成14年および18年に報告された、外国において感染し国内で同定されたHIV-2感染症例に続き、平成21年、愛知県における5例のHIV-2感染症例が報告された。 うち3例は来日中のアフリカ系外国人男性であったが、残り2例は日本人女性で、国内においてアフリカ系外国人男性との性交渉によって感染したと推定される。 今後もHIV-2感染症例が増える可能性が否定できない。 これらの症例についてはすでに厚生労働省より健康危険情報が出されており、HIV-2感染例を念頭に置いた検査体制が取られている。 ウイルス粒子の外側を構成するエンベロープには、糖蛋白質gp120とgp41の三量体からなる5-10個程度のスパイクが外側に突き出していて、標的細胞であるヘルパーT細胞やマクロファージ表面に発現しているCD4レセプターとケモカインレセプターCCR5またはCXCR4に結合して感染・侵入する。 HIVは血清学的・遺伝学的性状の異なるHIV-1とHIV-2に大別される( 図4)。 HIV遺伝子は、両端に存在するLTR long terminal repeat と呼ばれる遺伝子領域と、 gag, pol, envの3個の主要な構造遺伝子、 tat, revの2個の調節遺伝子、 nef, vif, vpr, vpu HIV-1のみ , vpx HIV-2のみ の4個のアクセサリー遺伝子から構成され、複雑かつ精巧な遺伝子発現調節機構によって制御されている。 HIV粒子の構造(模式図)。 HIV遺伝子と遺伝子産物(この図では、HIV-1)の構造と構成を模式的に示す。 ウイルス粒子の外側を構成するエンベロープには、糖蛋白質gp120とgp41の三量体からなる5-10個程度のスパイクが外側に突き出している。 HIV遺伝子の構造。 HIVは血清学的・遺伝学的性状の異なるHIV-1とHIV-2に大別される。 HIV遺伝子は、両端に存在するLTR long terminal repeat 、 gag, pol, envの3個の主要な構造遺伝子、 tat, revの2個の調節遺伝子、 nef, vif, vpr, vpu HIV-1のみ , vpx HIV-2のみ ,の5個のアクセサリー遺伝子から構成され、複雑かつ精巧な遺伝子発現調節機構によって制御されている。 2)HIVの複製サイクルと宿主細胞の感染抑制因子 HIVの複製サイクルは、「前期過程」と「後期過程」に大別できる( 図5)。 HIVは宿主細胞表面に発現しているCD4レセプターとケモカインレセプターCCR5またはCXCR4に結合する(吸着・結合)。 引き続いてウイルス膜と細胞膜を融合させ(膜融合)、ウイルスのコアを細胞質に注入する。 コアの崩壊(脱殻)に伴い、ウイルスの逆転写酵素の働きによってウイルス一本鎖RNAゲノムは二本鎖DNAに変換され(逆転写)、核内に導入される(核移行)。 核内では、ウイルスのインテグラーゼの作用によって二本鎖DNAは宿主の染色体に組込まれる(ウイルスDNAの組込み)。 ここまでが前期過程である。 後期過程はまず、ウイルスDNAが宿主のRNAポリメラーゼとHIV調節遺伝子産物Tatの協調によってウイルスmRNAに転写される(転写)。 ウイルスmRNAはHIV調節遺伝子産物Revなどの作用によって核外に輸送される(核外輸送)。 細胞質では、Env蛋白質前駆体(gp160)、Gag蛋白質前駆体(Pr55Gag)、Gag-Pol前駆体(Pr160GagPol)が合成され、細胞膜(形質膜)に輸送される(翻訳・輸送)。 細胞膜直下で感染性を有しない未成熟ウイルス粒子は宿主細胞表面から出芽・放出される(出芽・放出)。 放出と同時または放出後にウイルスのプロテアーゼによって前述のGag蛋白質前駆体とGag-Pol前駆体は切断され、再構成された構造(コア構造)を形成し、感染性を獲得した成熟ウイルス粒子となる(成熟)。 HIVの複製サイクルと宿主細胞の感染抑制因子。 HIVの複製サイクルは、前期過程と後期過程からなる。 <最近の話題:HIV感染抑制因子(図5参照)> 2000年以降のHIVの基礎研究における最大の話題は、このウイルスと闘う宿主細胞の感染抑制因子(Restriction factors)とそれらに対抗するウイルス因子の両方に関する知見である。 1)APOBEC3蛋白質:最初に2002年に報告された抗HIV因子は、APOBEC3GをはじめとするAPOBEC3蛋白質である。 この宿主因子の抑制機構は2つある。 感染細胞においてウイルス粒子に取込まれると次の感染の逆転写過程において、1)シチジンデアミナーゼ活性によって合成されるウイルスDNAにおけるdCからdUに変異を入れる、2)ウイルスRNAに結合して逆転写過程そのものを阻害する。 この抑制因子に対して、HIVは前述のアクセサリー遺伝子産物の一つであるVifを対抗因子として獲得している。 Vifが感染細胞内で発現するとAPOBEC3と結合してユビキチン化し、Vifを含む複合体全体がプロテアソーム系によって分解することが示された。 APOBEC3とVifの相互作用を阻害する化合物が新たな作用機序の抗HIV-1剤の候補として期待されているが、現在までのところ培養細胞レベルでのAPOBEC3-Vifの相互作用阻害活性と抗HIV-1活性を有する化合物は見つかってきてはいるが、抗HIV-1薬の候補となりうるほど高活性で低細胞毒性の化合物の報告には至っていない。 3)Tetherin(BST-2): 2008年にHIVの産生細胞からの放出を抑制する因子として報告されたのがtetherin(BST-2)である。 この膜蛋白質は、HIV感染細胞から産生された子孫ウイルスを細胞膜で繋留しその放出を顕著に阻害する。 これに対して、HIV-1はこの抑制因子に対してもアクセサリー遺伝子産物の一つである Vpuの作用によって対抗している。 HIV-2は Vpuを持っていないが、そのEnv蛋白質に抗tetherin活性を内蔵している。 抗tetherinの作用機序としては、エンドサイトーシスによる細胞表面tetherinの分解や Vpuによるtetherinの小胞体(ER)での捕獲とプロテアソーム依存的な分解が知られている。 Tetherinについて興味深い点は2つある。 一つは、tetherinはHIVのみならず広くエンベロープウイルスの細胞からの放出を抑制する活性を有していること、もう一つは、tetherinにはウイルス放出活性の他に、ウイルスの放出に伴いNF-kB分子の活性化を誘導するシグナル分子としての機能がある点である。 4)SAMHD1:2011年、SAMHD1が単球、樹状細胞やマクロファージ内でHIVの逆転写過程を阻害する宿主因子として同定された。 SAMHD1はその酵素活性によって細胞内のデオキシヌクレオチド(逆転写酵素の基質)を分解してその量を減少させる。 したがって、細胞内のデオキシヌクレオチド濃度が増殖細胞よりも低い樹状細胞やマクロファージにおいてHIVの逆転写過程で阻害する。 HIV-1にはないが、HIV-2や一部のSIVにはあるアクセサリー遺伝子産物の一つであるVpx(図4)がこのSAMHD1をユビキチン・プロテアソーム系によって分解する対抗因子として存在する。 HIV-1に実験的に外からVpxを供給すると、単球、樹状細胞における複製は促進される。 それにも関わらずHIV-1が進化的にVpxを手放したのは、生体内におけるHIV-1の生存戦略においては、SAMHD1は必ずしもこのウイルスにとって都合の悪い抑制因子ではないのかもしれない。 5)その他のHIV感染抑制因子:以上の4つのHIV感染抑制因子の他に、ここ数年いくつもの感染抑制因子が報告されているが、以下代表的な2つを紹介する。 まず、2013年に2つの研究室から同時に発表されたMxB Mx2 である。 この因子は、APOBEC3、TRIM5、tetherin(BST-2)と同様にインターフェロンによって誘導される宿主因子である。 HIVのコア(キャプシド蛋白質)に結合し、核膜孔蛋白質等との相互作用を通じて核移行の過程を阻害すると考えられているが、その作用機構などについては未だ不明な点が多い。 次に、2015年にこれも2つの研究室から同時に発表されたSERINC5 serin incorpotator5 がある。 この抑制因子はHIV-1粒子内(ウイルス膜)に取込まれ、Env蛋白質の高次構造の変化に影響を与えることによって、HIV-1と標的細胞の膜融合を阻害したり、ウイルスの中和抗体に対する感受性を高めたりする。 HIV-1の対抗因子はアクセサリー蛋白質の一つであるNefであり、NefがSERINC5のHIV粒子への取込みを阻害することがわかっている。 しかしながら、この因子に関する主な疑問点は、上述の膜融合阻害の詳細なメカニズムに加え、SERINC5による感染抑制は実験室(T細胞株における培養)に適応したHIV株で顕著に認められるがその抑制機構の詳細や、いわゆるprimary isolatesと呼ばれるHIVの多くはSERINC5による抑制に対して耐性を示すことが知られているが、実験室株とのどんな違いがSERINC5感受性の差を生み出しているのか、である。 以上のような宿主細胞における感染抑制因子とそれらに対するウイルスの抗感染抑制因子の存在から、SIVからHIVへ、すなわちサルからヒトへと種の壁を超えて宿主に適応してきたウイルスと宿主の攻防の歴史をみることができる。 また、さらに重要なことは、感染抑制因子とHIVの抗感染抑制因子の相互作用が新しい作用機序を有する抗HIV薬剤開発の標的となりうることであり、今後のこの分野の新薬開発に対する貢献も期待される。 臨床症状 (吉村 和久) 1 感染経路 主な感染経路には、 1 性的接触、 2 母子感染(経胎盤、経産道、経母乳感染)、 3 血液によるもの(輸血、臓器移植、医療事故、麻薬等の静脈注射など)がある。 つまり、血液や体液を介して接触が無い限り、日常生活ではHIVに感染する可能性は限りなくゼロに近いといえる。 唾液や涙等の分泌液中に含まれるウイルス量は存在したとしても非常に微量で、お風呂やタオルの共用で感染した事例は今のところ報告されていない。 かように、HIVは体外に出るとすぐに不活化してしまう程脆弱なウイルスなのである。 2 経過 HIV 感染の自然経過は感染初期(急性期)、無症候期、エイズ発症期の3期に分けられる( 図6)。 その間持続的に免疫システムの破壊が進行し、ほとんどの感染者は免疫不全状態へと至る。 HIV感染症の経過。 第21版HIV感染症「治療の手引き」 を一部改変。 感染初期(急性期):HIV感染成立の2~3週間後にHIV血症は急速にピークに達するが、この時期には発熱、咽頭痛、筋肉痛、皮疹、リンパ節腫脹、頭痛などのインフルエンザあるいは伝染性単核球症様の症状が出現する。 症状は全く無自覚の程度から、無菌性髄膜炎に至るほどの強いものまで、その程度は様々である。 初期症状は数日から10週間程度続き、多くの場合自然に軽快する。 この時期に診断が出来ると、その後の治療及び経過に圧倒的に有利になる。 そのため、アクティブな性行為感染症(STD: 梅毒、淋病、コンジローマ、クラジミアなど)を上記急性感染症状と同時に診た時は、HIV感染を考えてみることが重要である( 表1)。 無症候期:感染後の免疫応答(CTL誘導や抗体産生)により、ピークに達していたウイルス量は6~8カ月後にある一定のレベルまで減少し、定常状態(セットポイント)となる。 その後数年~10年間ほどの無症候期を過ぎると、発熱、倦怠感、リンパ節腫脹などが出現し、帯状疱疹などを発症しやすくなる。 この期間は、HIV感染症に特徴的な症状はほとんどないが、上述したSTDや肝炎、繰り返す帯状疱疹、ヘルペス、結核や口腔カンジダ 、赤痢アメーバなどがきっかけとなってHIV感染が判明することも少なくない( 表1)。 (より許可を得て転載させていただきました。 ) III. エイズ発症期:感染後抗HIV療法が行われないとHIV感染がさらに進行し、CD4陽性T細胞は急激に減少してくる。 また、食欲低下、下痢、低栄養状態、衰弱などが著明となる。 現在では、きちんと服薬しさえすればウイルス量を測定感度以下まで抑え込むことができ、エイズへと至ることはほとんどなくなった。 そのため、いかに早く診断し、適切な治療をはじめることが出来るかが、個人にとっても社会にとってもこの感染症の拡大を押さえ込むための最も重要なポイントといえるのである。 HIV感染症の病状の経過図。 CD4数が減少し、免疫能が低下するとともに日和見感染症や日和見腫瘍が見られるようになってくる。 <最近の話題:HAND> HIV感染による認知障害ですぐに思い浮かべるのは、以前なら発症者に見られるエイズ脳症(AIDS Dementia Complex;ADC)だった。 しかし、多剤併用療法が浸透してからは重篤な状態で脳症を発症する患者さんはめったにみなくなったため、多くの臨床医はそのことに関心を払わなくなっていた。 ところが、近年感染症例の中に軽度の認知症例患者が多いことが報告され、がぜん注目を集めている。 これは感染症例に見られる比較的軽度な認知障害をさすもので、HIV関連神経認知障害(HIV-Associated Neurocognitive Dysfunction;HAND)と呼ばれている。 重症度により、1 顕著な機能障害を伴う認知障害(HIV-associated dementia;HAD)、2 軽度神経認知障害(Mild neurocognitive disorder;MND)、3 無症候性神経心理学的障害(asymptomatic neurocognitive impairment;ANI)の大きく3つに分類される。 ANIの場合日常生活は問題なく行えるが、MNDになると日常生活に支障がでて支援が必要となり、HADでは入院による加療が必要となる場合がある。 これまで、薬をきちんと飲めなかったりするのは本人にやる気がない為だと決めつけていなかっただろうか。 しかし、実はこのような病態が潜んでいたとしたら、臨床の現場も患者さんへの対応を今一度見直さないといけないであろう。 きちんと服薬していた真面目な患者さんが、急に飲み忘れが多くなったという経験を持っておられる方は、結構いるのではないだろうか。 HIV検査は偽陽性判定を除く目的で、スクリーニング検査と確認検査の2段階で行われる。 検査の流れは、以下の図に示す通りである( 図8)。 スクリーニング検査では、ウインドウ期が短い第4世代試薬の使用が推奨される(後述)。 一方、感度より正確性(特異性)が優先される確認検査では、抗体確認検査としてウエスタン・ブロット法(WB法)が用いられている。 しかしながら、感度に劣るWB法では、スクリーニング検査陽性でも陰性あるいは判定保留となることがある。 明らかな感染リスクがある場合や急性感染を疑わせる症状がある場合には、核酸増幅検査(NAT)を行うことを考慮する必要がある。 ただし、NATは偽陽性判定が出る危険性があるので、WB法陰性NAT陽性となった場合には、WB法陽性となるまでフォローアップすることが望ましい。 HIV-1 WB法陰性NAT陰性となった場合には、HIV-2 WB法による確認検査を行う。 HIV-2 WB法陰性と判定された場合でも、感染初期で抗体価が充分でない可能性があるので、後日再検査を行うことが望ましい。 なお、現在体外診断薬として認可・販売されているHIV遺伝子検査試薬は、すべてHIV-1検出系でありHIV-2は検出できない。 HIV遺伝子検査試薬を用いた検査は、感染母体からの移行抗体があるために抗体検出試薬が有用ではない新生児の感染診断にも有効であるほか、献血の安全性の確保のためにも応用されている。 一般的にHIV-1感染例における抗HIV-1抗体(IgMとIgG)のみを検出できる試薬の感染性ウインドウ期(下図)は22日程度とされている。 抗原も同時に検出できる第4世代試薬のウインドウ期は数日短く、NATではさらに短く11日程度といわれている。 NAT法の導入によって、抗体ウインドウ期にある献血者が未然に発見され、輸血用血液の安全性の確保に役立っている。 加えて、2000年代より我が国でもHIV-2感染例が報告されるようになったことから、日本赤十字社の全てのNAT検査施設で、NATによるHIV-2の検出も行われている。 HIV感染初期のウイルスマーカーの変化とウインドウ期(HIV検査・相談マップ:HIVまめ知識(厚生労働省科学研究費エイズ対策研究事業ホームページ)より引用) また、HIVに感染するリスクのある行為からHIV陽性と判定されるまでの期間は1〜3ヶ月といわれている。 HIV検査を受けて陰性と判定された場合でも、そのような行為から3ヶ月未満であった場合には、3ヶ月目以降にもう一度検査を行う必要がある。 なお、感染研ホームページからリンクされている、病原体検出マニュアル()内に、HIV感染診断法について詳細に記載されているので、そちらも参照されたい。 米国やEU、カナダにおいても検査試薬として承認を受けている。 WB法が抱える弱点を克服しており、我が国にも導入が期待されている。 治療 (杉浦 亙、吉村 和久) 1 HIV感染症の薬物治療 3剤以上の抗HIV薬 antiretroviral drug: ARV を組み合わせて服用する多剤併用療法 Combination Antiretroviral Therapy: cART が今日のHIV感染症の標準治療法である。 cARTは1996年のプロテアーゼ阻害剤の実用化とともに始まり大きな治療実績をあげてきた。 この22年間に多くのARVが開発されており、現在までに核酸系逆転写酵素阻害剤 Nucleoside Analogue RT Inhibitor: NRTI 、非核酸系逆転写酵素阻害剤 Non-Nucleoside RT Inhibitor: NNRTI 、プロテアーゼ阻害剤 Protease Inhibitor: PI 、インテグラー阻害剤 Integrase Strand Transfer Inhibitor: INSTI 、CCR5阻害剤が実用化されている 表2。 また、本邦でも3-4剤が1錠になった合剤が2013年から使用可能となり、1日1回1錠という治療が一般化してきた。 日本では承認されていないが、融合阻害剤enfuvirtideは米国をはじめ多くの国で使用されている。 ARTの進歩は単に薬剤の種類が増えただけでなく、ARVの性能が改良されており、ART黎明期に比べると格段に強い抗ウイルス活性、長い血中半減期そして難薬剤耐性獲得性が実現されている。 これらの改良は服薬回数の軽減につながり、治療の成功率は飛躍的に向上している。 日本で承認されている抗HIV薬剤一覧(2017年11月現在) 近年HIV感染病態の研究が進展し、それに伴いART治療戦略が変わりつつある。 2015年にWHOが診断即治療を推奨するに至り、世界的に感染が判明し次第可及的速やかに治療を行うこととなった[5](図10)。 図10. CD4数による治療開始基準の変遷 IAS, DHHS, WHO, EACSガイドラインの比較. IAS: International AIDS Society, DHHS: U. Department of Health and Human Services, WHO: World Health Organization, EACS: European AIDS Clinical Society [5]の図から一部改変。 8%以降徐々に検出率は増加しており2010年には11. 0-9. 0%を推移している。 2016年は10. 2%と久々に10%を越えた。 観察される薬剤耐性変異の種類はNRTIが最も多く、次いでPI、そしてNNRTIとなっている。 2012年以降はINSTI耐性変異も調べるようになって、2013-2015は数例確認されたが、2016年はゼロであった。 一方ARTにおける薬剤耐性の影響であるが、ARVの進歩により薬剤耐性が原因でウイルス学的治療失敗に陥る症例の頻度は少なく、薬剤耐性班による調査では2009年の調査では1. 5%だったものが、2014年の調査では1. 1%に減少していた[6]。 図11. 2016年にLancetに報告されたイギリスのPROUD Studyでは、PrEP群で感染リスクが86%も減少した[8]。 2012年にはFDAがアメリカでツルバダの予防投与を承認し、2014年にはCDCが、2015年にはWHOがPrEPのガイドラインを策定した。 コストや、副作用、耐性などの問題はあるが、効果的な予防法の一つとして海外では定着しつつある。 日本においても、2018年2月から一部の施設でPrEPの試験的な施行が始まったばかりである。 unaids. Cohen MS, Chen YQ, McCauley M, et al. Prevention of HIV-1 infection with early antiretroviral therapy. N Engl J Med. 2011, 365: 493-505. jfap. html• Hattori J, Shiino T, Gatanaga H, Yoshida S, Watanabe D, Minami R, et al. Trends in transmitted drug-resistant HIV-1 and demographic characteristics of newly diagnosed patients: Nationwide surveillance from 2003 to 2008 in Japan. Antiviral Res 2010,88:72-79. Yoshimura K. J Infect Chemother. 2017;23:12-16. Miyazaki N, Sugiura W, Gatanaga H, Watanabe D, Yamamoto Y, Yokomaku Y,Yoshimura K, Matsushita S; Japanese HIV-MDR Study Group. The Prevalence of High Antiretroviral Coverage and Viral Suppression in Japan: an Excellent Profile for a Downstream Human Immunodeficiency Virus Care Spectrum. Jpn J Infect Dis. 2017;70 2 :158-160. Karim QA, Karim SS, Frohlich JA, Grobler AC, Baxter C, Mansoor LE, et al. Effectiveness and Safety of Tenofovir Gel, an Antiretroviral Microbicide, for the Prevention of HIV Infection in Women. Science 2010. McCormack S, Dunn DT, Desai M, et al. Pre-exposure prophylaxis to prevent the acquisition of HIV-1 infection PROUD : effectiveness results from the pilot phase of a pragmatic open-label randomised trial. Lancet. 2016;387 10013 :53-60. 発生動向調査について 感染症法に基づき、エイズ・HIV 感染者の発生動向は、毎3カ月間隔で厚生労働省が主催するエイズ動向委員会によって、各都道府県を通じて厚生労働省に報告された過去3 カ月間の症例を集計した結果に基づき分析がなされ、公表される。 集計結果は、性別・感染原因、性別・年齢、性別・感染地域等のカテゴリー別にまとめられ、発生動向が多角的に分析され、厚生労働省ホームページ()に掲載される。 感染症法における取り扱い 2018年2月時点) 「後天性免疫不全症候群」は全数報告対象(5類感染症)であり、診断した医師は7日以内に最 寄りの保健所に届け出なければならない。 届出基準は.

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