君 の 膵臓 を 食べ たい 感想。 住野よる『君の膵臓をたべたい』読書感想文

「君の膵臓をたべたい」を読んだ正直な感想

君 の 膵臓 を 食べ たい 感想

あらすじはこんな感じ! ある日、高校生の僕は病院で1冊の文庫本を拾う。 タイトルは「共病文庫」。 それは、クラスメイトである山内桜良が密かに綴っていた日記帳だった。 そこには、彼女の余命が膵臓の病気により、もういくばくもないと書かれていた。 こうして、偶然にも【ただのクラスメイト】から【秘密を知るクラスメイト】となった僕。 まるで自分とは正反対の彼女に、僕は徐々にひかれていった。 地味な高校生男子「僕」と、人気者女子「山内桜良」の恋愛を描いたストーリー。 桜良が患う 深刻な 病気の存在を知ってしまい、それを弱みに僕が振り回されていきます。 「病人のお願いだから聞きなさい!」的な。 「病気」と「高校生の恋愛」、これだけ聞くとありがちな小説っぽいですけど、それだけだったら62万部も売れませんよ! ちなみにわりと胸キュンな恋愛小説なので、住野よるさんは「素敵な女性なんだろう…」と思っていたら、 20代後半の男性らしいです。 ちょっと夢が壊れましたw 「君の膵臓をたべたい」の感想(ネタバレあり) 物語は読み始めてから、だいたい3日くらいでさらっと読めました。 ここ半年で1番の良作でした!! ストーリー自体はそんなに難しくないし、そこまで予想外のことも起きません(結末はさすがに予想できなかったけど)。 それでも引き込まれるし、 感情移入しすぎて、泣いたり笑ったり忙しかったです。 以下、印象に残ったポイントです。 会話がくだらなおもしろい。 物語の大部分で「僕」と、山内桜良が くだらないおしゃべりを繰り返します。 こちらはトランプの罰ゲームで、桜良が何らかの質問に答えないといけないシーンです。 「いいよ、なんでも答えるよ?ファーストキスの話とか聞く?」 「せっかく得た権利をそんなエレベーターよりも下らない質問に使えないよ」 「……エレベーターって別に下るよね?」 「そうだよ? だから? 意味あること言ったとでも思った?」 彼女はうわははっと上機嫌に笑った。 友達ができたことのない「僕」のコミュ障っぽい口調と、それをいじる小悪魔な桜良の会話が結構ツボにはまるんですよね。 くだらない会話に付き合ってくれる女の子って素敵だなー。 タイプだわー。 主人公の性格が僕に似てて、桜良が好きなタイプの女性すぎるので、もう好きです。 超個人的な意見ですねこれ。 主人公の名前が最後の最後まで明かされない。 主人公の「僕」の名前は最後の最後まで明かされません。 終始【地味なクラスメイト】【ひどいクラスメイト】と表記されます。 「見ようと思えば性別の違う二人組は全部カップルに見えるし、外見だけなら君もとても、もうすぐ死ぬようには見えない。 大切なのは、人からの評価じゃなくて中身。 君も言ってたろ」 「【秘密を知ってるクラスメイト】くんらしいね」 笑いながらカフェオレを飲もうとするので、彼女のグラスから逃げ出した空気の音がする。 「それで、【秘密を知ってるクラスメイト】くんには彼女はいたの? 「よし、休んだしそろそろ」 「まだ一口もコーヒー飲んでないでしょうが」 これは主人公の「 誰かに名前を呼ばれたときに、相手が自分のことをどんな風に思っているかを推測する」という癖を表現してます。 主人公の名前がわからないだけで、小説全体がミステリアスになるんですよね。 安部公房の「」みたいな。 ここが普通の恋愛小説と一線を画したポイントじゃないかな。 「君の膵臓をたべたい」の本当の意味 本を手に取った人は、タイトルの意味を考えながら物語を読み進めるはず。 膵臓をたべたいって、普通に気持ち悪いじゃないですか。 この言葉の意味がわかるのは終盤の終盤。 桜良が死んだあとのことですね。 私はもうとっくに君の魅力に気が付いているからね。 死ぬ前に、君の爪の垢でも煎じて飲みたいな。 って書いてから、気づいたよ。 そんなありふれた言葉じゃ駄目だよね。 私と君の関係は、そんなどこにでもある言葉で表わすのはもったいない。 そうだね、君は嫌がるかもしれないけどさ。 私はやっぱり。 君の膵臓を食べたい。 君の膵臓をたべたい。 とんでもないキラーフレーズでした…。 感動した。 内向的な主人公と、外交的なヒロイン。 2人はお互いに尊敬していて、互いに「あなたになりたい」と思っていました。 これは恋なのか…なんと言えばいいのか…。 あぁ、君の膵臓をたべたい…。 スポンサーリンク.

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「君の膵臓をたべたい」を読んだ正直な感想

君 の 膵臓 を 食べ たい 感想

作者: ツイッター:[ ] 出版: 「君の膵臓(すいぞう)をたべたい」は、「僕」こと志賀春樹の一人称で語られる物語です。 人と極力関わらず、友だちもおらず、クラスでは暗いヤツと思われている「僕」は、大きな病院に盲腸の手術後の抜糸に行ったときに、「共病文庫」とマジックで手書きされた日記帳をロビーのソファの上に見つけます。 「僕」は余命を宣告された誰かの日記であることに気が付き本を閉じましたが、クラスメイトの山内桜良から「それ、私のなんだ」などと声を掛けられます。 「共病文庫」に書かれていた内容の深刻さを知ってしまっていた「僕」は、「……冗談でしょ?」と尋ねますが、桜良は「うわははっ」と笑い、「私は膵臓が使えなくなって、あとちょっとで死にます、うん」などと、内容の深刻さからは考えられない明るさで答えました。 桜良は「皆には内緒にしているから、クラスで言わないでね」と言い置き、そのまま病院の奥に行ってしまいました。 が、翌日、桜良は廊下ですれ違った「僕」に声を掛け、クラスで「僕」だけが担当していた図書委員会の空席に名乗りをあげました。 桜良は、テレビ番組で、昔の人はどこか悪いところがあると他の動物のその部分を食べ、そうすれば病気が治ると信じていたことを知り、学校の図書室の書庫で、「僕」に、「だから私は、君の膵臓を食べたい」と告げます。 「僕」は桜良に誘われて焼き肉やスイーツを食べにいくようになります。 その様子をクラスメイトに見られても、桜良は気にする様子がなく、むしろ楽しんでいるようでもありました。 「僕」がクラスの人気者で男子生徒から告白もされる桜良につきまとっているという噂が流れますが、「僕」はそれまで通り、人との関わりを避け続けます。 桜良はそんな「僕」を泊まりで行く旅行に連れ出しました。 …… 「君の膵臓をたべたい」は、読み終えて、作者の人間に対する温かいまなざしのようなものを感じました。 「君の膵臓をたべたい」のストーリーは、桜良の死後、「共病文庫」を読んで、「僕」が桜良の心を知るという形で展開します。 桜良と付き合っている間も、桜良が背中から抱き付いて来て「恋人でも、好きな人でもない男の子と、いけないことをする」などとささやいてきたときに、その後の会話も含めて「僕」は、理由が分からない怒りを感じて桜良をベッドに押し倒したり、桜良からクラスメイトから陰口を言われるのは「君がちゃんと皆と話さないからだよ」と声を掛けられたり、桜良から「きっと誰かと心を通わせること。 そのものを指して、生きるって呼ぶんだよ」と告げられて鳥肌が立ったりしていました。 でも、「僕」は、桜良が死んでからはじめて、桜良はずっと「僕」が気になっていたことや、桜良が「僕」のことを「彼はやっぱり、自分と戦ってる」と書いていたことや、余命が半年縮んで「僕」から「何かあったのか」と尋ねられた時に本当は泣きそうになっていたことや、桜良が本当に「僕」のことを好きだったことや、「僕」から必要とされて嬉しかったことなどを知りました。 桜良は、「共病文庫」に「僕」宛の遺書を書いていました。 桜良は「私が君みたいだったら、もっと誰にも迷惑をかけず、悲しみを君や家族にふりまいたりすることなく、自分のためだけに、自分だけの魅力を持って、自分の責任で生きられたんじゃないかって」、「君は人との関わりじゃなくて、自分を見つめて魅力を作り出してた」、「私も、自分だけの魅力を持ちたかった」などと記していました。 桜良が意図していたのかどうかは分かりませんが、桜良は、残された時間を使って、自分の殻に閉じこもって前に進めなくなっている「僕」を、「僕」が今いる場所から前に向かって歩き出せるように背中を押したのではないかと感じました。 桜良の遺書を読んだ「僕」は、今のままではダメだと気が付きます。 「僕」自身も気が付いたように、誰が見ても「僕」は今のままではどうにもならないように見えました。 しかし、桜良は、自分の死後に「僕」に親友の恭子と仲良くしてほしいとは書きましたが、桜良は、今のままではどうにもならない「僕」のことを一切否定せず、全肯定していました。 「君の膵臓をたべたい」は、桜良の命の物語であると同時に、このままではどうにもならない「僕」が今いる場所から一歩前に踏み出す物語だと思いました。 そして、桜良のこのままではどうにもならない「僕」に向けたまなざしは、限りなく温かいです。 そんな桜良のまなざしは、作者の「僕」に向けたまなざしなのかもしれないと思いました。 引用元:[ ] 本の詳細:[ ].

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読書感想文「君の膵臓をたべたい(住野よる)」

君 の 膵臓 を 食べ たい 感想

「選んでくれてありがとう」 <「違うよ。 偶然じゃない。 私達は、皆、自分で選んでここに来たの。 君と私がクラスが一緒だったのも、あの日病院にいたのも、偶然じゃない。 運命なんかでもない。 君が今までしてきた選択と、私が今までしてきた選択が、私達を会わせたの。 私達は、自分の意思で出会ったんだよ」> 人生に偶然はない。 すべてその人の選択の結果である。 桜良はそのような考えを持っています。 それは「僕」が「春を選んで咲く桜という花の名前は、人生を偶然じゃなく選択だと考えている君の名前にぴったりだ」と指摘するように、「桜良」という名前と密接にリンクしています(このセリフは「春を選んで」というところが「僕」の名前である「春樹」とも関係していますけど、それはまた別の話)。 この桜良の人生観はそのまま受け取ることもできますけど、私は別の意味も含まれているのでは、と思いました。 それは「この本を読むことを選んでくれてありがとう」です。 読書をしていて「この本はすごい。 読んでよかった。 まさに、私のために書かれたものだ」と思う本に出会う機会はまあまああります。 それがよいことかよくないことかはいったん置いておいて、そういう気持ちはたいがい、読者の片想いです。 だって常識的に考えて、私ひとりのためだけに書かれた本は、きっと存在しないからです。 本に対する思いは、たいてい一方通行です。 でも、まれにそんな読者の思い込みと呼応するように、本の側からも「読んでくれてありがとう」というメッセージを発信している本があります(ほんとうに珍しいですけど)。 この『君の膵臓をたべたい』という小説はそんな「珍しい本」です。 「よく選んでくれたね。 ありがとう」のメッセージを読者に向けて掲げてくれている、とてもレアな本です。 私はそう感じました。 私の今までの読書経験を顧みると、小説のほうからメッセージを発してくる作品を書ける作家は、太宰治とサン=テグジュペリしか知りません。 たとえば太宰治は『桜桃』の出だしでこう書いています。 <子供より、親が大事、と思いたい。 子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。 > 第二文の「何」というところが、まさに読者を意識した言葉です。 「だよね? 子供より親が弱いって、君も思ってるよね、きっと」という作者の気持ちがとても伝わってきます。 太宰治とサン=テグジュペリは私が知っている中でこのような「読者に対して語りかけてくれる作品」を書くことのできる特別な才能を持った作家です。 そしてそれは偶然にも、『君の膵臓をたべたい』の作中で名前が出てきた作家のうちのふたりです。 <「ふーん。 一番好きな小説家は名前と一緒?」「違う。 一番は、太宰治」> <「『星の王子さま』、知ってる?」「サン・テグジュペリ?」> 「人生に偶然なんてない」という桜良の言葉を借りると、小説の中に彼らの名前が出てきたのは偶然ではないと考えるべきでしょう。 「あなたが今読んでいるこの『君の膵臓をたべたい』という小説も、太宰治やサン=テグジュペリの本のように、あなたに語りかけていますよ」というメッセージです。 それは「メッセージを発していることを伝えるためのメッセージ」です。 「これからあなたに語りかけるから、聴き逃さないでね。 いい?」というメッセージです。 その直後に、桜良は上に記したような「人生に選択はない」というようなことを言います。 それは「だから、この本を選んでくれてありがとう」というメッセージと受け取るべきだと私は思いました。 私が「この本に出会う選択をしてよかった」と思うと同時に「選んでくれてありがとう」と語りかけてくれる。 『君の膵臓をたべたい』はそんな贅沢で幸福なコミュニケーションができるとてもすばらしい小説です。 (100行,原稿用紙5枚ぴったり) 原稿用紙5枚(2000字,100行)その2 「ガムいる?」が可視化すること 私が『君の膵臓を食べたい』で注目すべきだと思っているのは「ガムをすすめてくる男」です。 このキャラクターは事あるごとに主人公に「ガムいる?」と声をかけます。 私が数えたところによると4回(74頁、137頁、138頁、177頁)。 たった4回ですが、とても私の注意を引きました。 私の経験上、こういう何回も同じ行動をとるキャラクターは、大切な役割を担っていることが多いからです。 案の定、エンディングで彼についても後日談が語られています。 どうしてただの「ガムをすすめてくる男」が『君の膵臓をたべたい』でこんなに重要なポジションを与えられているのか。 それを考えてみたいと思います。 主人公は「ガムいる?」の問いかけに対して何度も「いらない」と答え、ガムをすすめてくる男はめげずに何度もガムをすすめます。 これは主人公が「贈り物を受け入れる準備」ができていなかったことを表しています。 私たちが贈り物を受け取るときに気まずい気持ちになるのは、返礼の準備ができていないときです。 たとえば忙しすぎて「ありがとう」の気持ちを充分に伝える時間・手段がないとき。 人は何かをプレゼントされると、無意識に「返礼の義務感」を抱くものです。 年賀状だって、出していなかった相手から届くと、あわててハガキを買いに走るということがあります。 それと同じです。 振り返ると、ガムをすすめられたタイミングというのは、主人公がなにか「問題」を抱えているときに限ります。 桜良と付き合っていると疑われたとき、上履きがゴミ箱に捨てられていたとき、桜良のストーカーだと噂されていたとき。 主人公はガムを受け取らないことを「選択」します。 でも最後に彼はガムを受け取ります。 直接的な描写はありませんが「あのさ、君達は僕が飴とガムを主食にして生きてるとでも思ってるの?」から推察することができます。 彼は桜良のように「生きる」ために「誰かと心を通わせること」(192頁)をガムを受け取ることを通して「選択」したのです。 言い換えると「ガムをもらうこと」の「返礼」として「彼と友だちになる」ことを選びました。 それは彼が「成熟」した証左にほかなりません。 桜良の言葉を借りるまでもなく、人は独りでは生きていけません。 物語のはじめ主人公は「僕は人に興味がない」と発言します。 彼はこの時点では「独りぼっちでも僕は生きていける」と思い込んでいる「子ども」です。 でも、桜良との触れあいを通して彼は魂ごと「大人になる」ことができました。 <彼女の存在そのものといえる言葉が、視線や声、彼女の意思の熱、命の振動となって、僕の魂を揺らした気がした。 >(192頁) それは志賀直哉が『城の崎にて』で生き物の生死を見せつけられた後で「生きていく」意欲が芽生えなかったことと対照的です。 志賀直哉は「生きていることと死んでいることはそんなに変わりがない」と思いました。 『君の膵臓をたべたい』の主人公は違います。 桜良と出会ったことで「誰かと関わる」という「生きる」「選択」をしました。 そのように彼が「未熟」な状態から「成熟」したことがはっきりわかる効果測定装置として、「ガムをすすめてくる男」は配置されていたのだと私は思います。 彼は「ガム」というアイテムを通して主人公の成長を可視化してくれました。 だから彼は主人公にとって、桜良の次に(恭子と並んで)大事なキャラクターであると断言できます。 (84行,原稿用紙4枚と4行) おわりに.

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