明智 光秀 長良川 の 戦い。 明智光秀の叔父・明智光安!光秀を守り散っていた壮絶な最期とは?

明智光秀、美濃を追われ、越前で過ごした「謎の十年間」

明智 光秀 長良川 の 戦い

明智光秀が斎藤道三の死後に仕えた越前の朝倉義景とはどんな関係だったのか解説! 「長良川の戦い」で斎藤道三が死んだのち、明智光秀は越前の朝倉義景の家臣となった。 斎藤道三と息子の義龍の間で起こった「長良川の戦い」で、明智光秀は斎藤道三の味方について戦いました。 しかし、この戦いで斎藤道三が敗れて死んでしまうと、明智光秀も居城の明智城を追われて越前に逃げ延びます。 そこで越前の国を治める大名の朝倉義景に仕えるようになったのです。 越前の朝倉家では明智光秀は冷遇されていた? 当時の当主・朝倉義景は、初代の朝倉孝景から数えて5代目にあたり100年以上続く名門の一族でした。 初代の朝倉孝景は、当時としては先進的な考えの持ち主で「世襲を重視せず、実力を大切にするべき」というお触れを出しています。 しかしながら「大事なところは越前以外の者は使うな」としており、よそ者に対しては厳しい態度を示していたのです。 よそ者に対して厳しい姿勢は、明智光秀が仕えた朝倉義景も同様であったようで、さほど大きな役割は与えられていなかったようです。 朝倉義景はやっかいな足利義昭を明智光秀に押し付けた? 13代将軍の足利義輝が三好三人衆によって暗殺されると、その弟の足利義昭は難を逃れる為に、越前の一乗谷で一時的に朝倉義景に匿われていた時期があります。 足利義昭としては、自分が将軍となる為にも京都に上洛したいという思いが強くありました。 そこで、名門である朝倉家の当主・朝倉義景に何度も上洛の手助けを求めますが、これに対して朝倉義景はのらりくらりとして本気で応えようとはしませんでした。 朝倉義景にとっては足利義昭が京都に上洛して将軍になることよりも、越前をどうするかということが最優先で、言ってしまえば足利義昭は厄介な存在だったのです。 そこで、この厄介な存在である足利義昭に対して、よそ者であり下級の家臣であった明智光秀を担当させました。 朝倉義景のもとでの生活がきっかけで織田信長の家臣になった? 朝倉家で冷遇されていた明智光秀ですが、かえってそのことが大きな転換点になりました。 織田信長が足利義昭を将軍にした背景には明智光秀の働きがあった さきほどもお伝えしたように、朝倉家では厄介者・足利義昭の担当として明智光秀が対応していたわけです。 明智光秀としては、足利義昭を京都に上洛させて将軍にしたいという思いがありました。 ところが、その気がない朝倉義景に対しては次第に不信感が高まり、やがて朝倉義景に対して見切りをつけるわけです。 そこで明智光秀は、いとこにあたる斎藤道三の娘の帰蝶をたより、夫である織田信長に足利義昭の京都上洛を打診します。 すると織田信長はこれに賛同し、足利義昭の京都上洛を全面サポートしたのです。 こうして足利義昭は晴れて15代将軍の座に就くことができたわけです。 つまり、織田信長が足利義昭を将軍に就任させた背景には、朝倉義景に見切りをつけた明智光秀の働きがあったわけです。 将軍・足利義昭のもとでの働きが認められ、明智光秀は織田信長の家臣となった 足利義昭を将軍にしたことで、その支援者である織田信長にとっても「将軍」という権威を背景に力を手に入れたわけです。 つまり、このことは足利義昭にとっても織田信長にとっても双方にメリットがあったわけですね。 これを結びつけた明智光秀は、織田信長からその手腕を高く評価されます。 この時、明智光秀は足利義昭に仕えていましたが、これをきっかけに織田信長の家臣としてつかえることになるわけです。 つまり、もとを辿れば越前の朝倉義景のもとでの冷遇によって、明智光秀が織田信長の家臣となるきっかけになったのです。 大河ドラマ「麒麟がくる」の越前編での展望を考察! 大河ドラマ「麒麟がくる」の明智十兵衛こと明智光秀は、美濃の時代は「美濃のマムシ」こと斎藤道三の独裁的な主君のもとで翻弄される場面が多くありました。 しかし、越前の朝倉義景は対象的にあまり大きな役割を与えられず、能力を発揮できずにくすぶる明智光秀の姿が描かれるのではないでしょうか。 そんな時に思い出されるのが、希望に溢れた織田信長の姿だった。 今後の越前編ではそんな明智十兵衛の姿が見られるのではないかと思います。 仕えた主君に悩まされる明智十兵衛が、希望をもって「麒麟がくる世界」を追い求める。 現代の悩めるサラリーマンが明智十兵衛に共感を覚えるのもわかる気がしますね。 さて、このブログでは大河ドラマ「麒麟がくる」にまつわる戦国時代の記事も掲載しています。 それについては下記で特集していますので、こちらも併せて読んでもらえると嬉しいですね。

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長良川の戦い 長良川合戦を2分で分かりやすく解説

明智 光秀 長良川 の 戦い

合戦の原因 [ ] (11年)名門に替わってのとなった斎藤道三は、(天文23年)に長男(庶長子)・義龍に国を譲り隠居した。 しかし、道三はしだいに義龍を「耄(おいぼれ)者」と考えるようになり、その弟のとを「利口者」だからと溺愛し、三男の喜平次には「 一色右兵衛大輔 」と名乗らせた。 長兄の義龍を差し置いて名門の姓と官途を与え、さらに2人の弟は奢り高ぶり義龍を侮るようになったため、道三と義龍の不仲は深刻なものとなった。 弘治元年()10月、義龍は病に臥せる振りをして奥 へと籠った。 道三が自身をし、寵愛する2人の弟いずれかを跡継ぎにするのではないかと考えた義龍は、対抗手段を取ろうと策をめぐらした。 開戦まで [ ] 翌11月22日、道三が山下(麓の井口)の私邸に出向いた隙に義龍は動いた。 2人の弟(喜平次、孫四郎)のもとに叔父・を使わせ、「自分は重病であり、時を待つのみである。 会って一言申し上げたいの入来されたい」と自分の傍に二人の弟を呼び寄せた。 道利が一計を図り、まず次の間 で道利が刀を置いた。 それに倣い、2人にも刀を置かせた。 対面の席で酒を振る舞い、酔わせてから寵臣のが太刀で殺害した。 なお、2人の弟を謀殺した義龍は山下の道三に使者を送り、その顛末を自ら道三に伝えた。 道三は驚き、急ぎ兵を集め城下の町を焼き払い逃走した。 道三は長良川を超えると山県のにまで逃れた。 翌年の雪解けとともに情勢は緊迫し、春にはついに合戦を行う事態となった。 戦闘と結果 [ ] 長良川の戦い [ ] 4月18日、初め道三は鶴山へと布陣した。 道三の娘婿であるのも、・を舟で越えて大良(岐阜県羽島市)の戸島・東蔵坊で陣所を構えた。 そして同月20日辰の刻、義龍軍が長良川南岸に動いたのに応じ、道三軍は鶴山を下りて長良川北岸に移動し、ここで両者は激突した。 なお、道三が国主となるまでの経緯もあって、重臣のをはじめ家中の大半は義龍を支持した。 義龍軍17500余名に対し、道三が動員できたのは2700余名と義龍軍が優勢であった。 合戦は義龍軍の先手・の突撃で始まった。 竹腰勢は円陣を組んで長良川を押し渡り、道三の本陣へと迫り、旗本に斬りかかった。 乱戦となったが、道三の指揮で竹腰勢は敗走し、旗本により道鎮は討ち取られた。 それを見た義龍は、自ら旗本を率いて川を越え陣を固めた。 この時、義龍勢の中からがを挑み、道三軍のがそれに応じた。 勝負は柴田が長屋の首を挙げたことにより決すると、両軍とも全軍に突撃を命じた。 道三は緒戦こそ優勢に戦いを進めるものの兵力では劣り、道三の前に義龍勢が押し寄せてきた。 道三勢が崩れて、が生け捕りにして義龍の前へ引き据えようと突進して道三に組み付き、もみ合っていたところへが道三の脛を薙ぎ、首を斬り落とした。 これに忠左衛門は激怒したが、後の証拠として道三の鼻を削ぎ懐に収め、その場は退いた。 これにより、合戦は終わりを迎えた。 なお、信長は自ら殿軍として出向いていたものの、合戦には間に合わなかった。 戦後 [ ] 首実検を行い、その場所に道三の首が運ばれてきた。 これは唐の故事で、止むを得ない事情により父親を殺した者の名とされてきた(『』)。 しかしながら、義龍は弘治元年12月に「范可」と署名した禁制をに与えている。 道三と戦う前から范可と称しているのであるから、これは作者の創作である。 その後 [ ] 大良河原での戦い [ ] 長良川での勝利で士気の上がった義龍軍は、首実検を終えたあと大良口の信長の陣所にも兵を差し向けた。 両軍は大良の河原で激突し、信長側はと(の父)が討ち死にし、は義龍軍のと渡り合い馬上で膝を斬られて退いた。 この状況の中、ようやく信長に道三討ち死にの報が伝わった。 信長はまず雑人・牛馬を後方に下げると「は信長が引き受ける」と言い、全ての兵を川を渡って退かせ、信長自身は舟一艘で川に残った。 義龍軍の騎馬がいくらか川端まで駆けて来ると、信長はを撃った。 騎馬武者は渡河を断念し、信長は退却することができた。 尾張への影響 [ ] 斎藤道三の死は、隣国尾張にも影響した。 尾張上四郡を支配する「岩倉織田家」当主・は斎藤義龍と呼応し、清洲近くの下之郷 の村に放火した。 これに対し、信長は岩倉織田家の領地に攻め入り、岩倉付近の領地を焼き払った。 一方、尾張下四郡を支配 する「勝幡織田家」(弾正忠家)の家中にも、義龍や信安と呼応して信長から離反し弟・(信勝)を擁しようとする不穏な動きがあり、やがてこれは勝幡織田家の家督争いへと発展していく。 道三死後の美濃 [ ] 父・斎藤道三を討ち果たした斎藤義龍であったが、その後5年ほどで急死した。 家督は義龍の子・が継ぐが、尾張の織田信長のにより没落して美濃を追われ、後にののもとに身を寄せて信長に反抗を続けるも、において戦死したという。 ただし、龍興には複数の生存説がある。 織田家ではの弟・がをし、兄であるも重臣となった。 備考 [ ] 道三塚。 長良川氾濫のため、当初の場所から移動している。 岐阜市指定史跡 ( )。 俗説として義龍の実父は道三によって美濃を追われた前とする説があるが、江戸時代に編纂された『美濃国諸家系譜』の記述が出典であるため不明。 また、近年によって唱えられた説では、道三は重臣との対立によって義龍を擁した重臣達によって当主の地位を追われたため、義龍とそれを支持する重臣達を排除するためにこの戦いを起こしたとされている。 以前は『信長公記』の記述により、道三が最初に本陣を置いたのはと考えられていたが、現在は鶴山に置いたという説が有力とされる。 この合戦では道三に与したため、義龍により居城のを攻められ、辛うじて脱出したは流浪の生活が始まったとする説がある。 道三は、元家臣の・・らの追跡をうけ、くみつかれて脛を斬りつけられ、鼻を削がれた。 元家臣の小牧道家(源太)により、道三塚へ手厚く葬られた。 援軍に来た織田軍は間に合わず、斎藤利治(道三の末子)らの道三残存軍と合流し撤退を開始したが、斎藤軍の追撃を受けた。 信長自らをし最新のを使い追撃を振り切り、その日のうちに撤退した。 長良川で対陣している最中に道三は、信長へ「」を記した。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ].

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明智光秀が家臣として仕えた越前の朝倉義景との関係を解説!麒麟がくるの考察も

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斎藤道三(利政)と斎藤義龍(高政)の関係を家系図から解説! 斎藤道三(利政)と斎藤義龍(高政)は親子の関係? 上記の家系図からわかるとおり、斎藤道三と斎藤 義龍 よしたつは親子の関係にあります。 ただ、斎藤義龍は実は斎藤道三の子供ではなく、美濃の守護大名で斎藤家の主君である 土岐頼芸 ときよりのりと 深芳野 みよしの との間の子供であったという噂があります。 これについては証拠がなく、本当かどうかははっきりとしていません。 ただ、道三は義龍のことをあまり良く思っていない様子で、龍重や他の弟の方を可愛がっていたようで、この噂は本当だったと信じられているのも不思議ではありませんでした。 なお、道三には義龍以外にも数多くの子供がいます。 上記の家系図にある龍重(孫四郎)は義龍の弟にあたり、正室のお見の方を母とする異母兄弟だったとされています。 しかし、道三の子供の出生については不確かで、龍重の母は深芳野だったという意見もあります。 斎藤義龍(高政)と織田信長は義理の兄弟の関係:二人の仲は悪かった? 斎藤道三はもともとは織田信秀と対立関係にありましたが、和睦して同盟関係を結ぶ為、娘の帰蝶を織田信長の妻として嫁がせました。 つまり織田信長は斎藤道三にとって義理の息子になったわけですが、道三は初めて会った時から信長のことを高く評価していたようです。 その初めての会見のエピソードは語り草になっていて、信長が登場するドラマではその様子が度々描かれています。 しかし、道三が信長を高く評価すればするほど斎藤義龍は不満を募らせ、その矛先は織田信長に向いていったようです。 斎藤道三(利政)と息子の斎藤義龍(高政)の関係が悪化し「長良川の戦い」に至った理由を解説! 斎藤道三と息子の義龍の親子の関係は次第に溝ができ悪化していったようです。 それはやがて親子で争う合戦の引き金になるのですが、なぜそこまで関係が悪化してしまったのか?考えられる要因を解説していきます。 斎藤道三(利政)が義理の息子・織田信長を高く評価するようになったから 先程ご紹介したように、道三は信長との会見のあと、その人間性に惚れ込み高く評価するようになりました。 身近に稀代の戦国武将である織田信長が存在し、道三自身も商人からのし上がり「美濃のマムシ」とまで呼ばれる存在であり、こうした戦国時代の傑物と比較すると、義龍はどうしても見劣りしてしまったに違いありません。 そしてやがては「義龍はできそこない」といったイメージを抱いてしまったのではないでしょうか。 実際に、天文22年(1553年)4月の斎藤道三と織田信長の会見以後は、息子の義龍を冷遇するようになっていったようです。 斎藤道三(利政)は義龍(高政)より弟の龍重(孫四郎)に家督を譲ろうとしたから 斎藤道三は、かねてから長男である義龍よりも弟の龍重や他の弟たちを可愛がっていたようで、それを感じていた龍重たち弟も長男の義龍を軽んじる態度をとっていたそうです。 さらに、お伝えしたように織田信長との会見以降、道三はさらに義龍を冷遇するようになり、 天文23年(1554年)には龍重を重要な地位に任命し、家督を義龍ではなく龍重に譲ろうという意図がはっきりとわかるようになります。 こうした道三の態度に義龍は不満を募らせていったわけですね。 斎藤義龍(高政)が実の息子ではないという事に真実味を帯びたから かねてから父・道三が自分よりも弟たちの方を可愛がっていたことに不満を覚えていた義龍は、家臣の日根野弘就や長井道利に相談しました。 すると二人の口から出た言葉は「それもそのはず。 貴方様は道三公の実の子供ではなく、奥方の深芳野様と土岐頼芸公の子供なのですから」という内容のものでした。 これを聞いた義龍は、驚きとともに道三の仕打ちに対して怒りがこみ上げてきました。 このことをきっかけに、義龍は道三を殺害しようと心に決めたのです。 もしかすると、義龍と同じように道三を憎く思っていた家臣達が義龍を奮起させる為の作り話だった可能性もあります。 ただ、そう信じられても不思議ではないほど、道三と義龍の仲は悪かったということですね。 斎藤道三(利政)と斎藤義龍(高政)親子の「長良川の戦い」と明智光秀や織田信長の動向を解説! 父・道三に対して怒りの感情が抑えられなくなった義龍は、ついに道三殺害に乗り出します。 そしてそれは美濃の長良川を舞台にした戦へと発展していくのです。 斎藤義龍が弟の龍重(孫四郎)と龍定(喜平次)を殺害する 義龍は、まずはじめに道三から寵愛され家督を譲られた弟の龍重と龍定を殺害することにします。 弘治元年(1555年)の秋、義龍は病気になったと偽って居間にこもるようになります。 そして長井道利(出生の秘密を打ち明けた家臣)を弟の龍重と龍定のもとに遣わし、別れのあいさつの為と称して呼び出しました。 何も知らない二人の弟は義龍のもとにやってくると、待ち伏せしていた日根野弘就(もうひとりの家臣)が二人を斬り殺しました。 対立関係にあった弟たちに不審に思われないよう、病と偽っていたことからもわかるように、義龍は着々と計画を練っていたことが伺えます。 父・斎藤道三(利政)と長良川にて対峙し、最後は道三を打ち取る 二人の弟を殺害した義龍は、そのことを父・道三に知らせたといいます。 それを聞いた道三は驚き慌てて大桑城(おおがじょう)に逃げ込み一時は膠着状態で年を越しますが、翌年(1556年)の春頃から情勢は緊迫し、ついに道三と義龍の親子による合戦が始まったのです。 お互いに兵を集めますが、事前に根回しをしていた義龍が約17,500人の兵を集めたのに対し、道三は約2,700人の兵しか集まらなかったといいます。 道三軍は最初のうちこそ持ち堪えていたものの、兵数の差を埋めることはできず、ついに道三のいる場所まで義龍軍が攻めこんできました。 すると義龍軍の兵は競い合うようにして道三に襲いかかり、最後は無残にも首を落とされてしまいました。 かつては「美濃のマムシ」と怖れられた斎藤道三も、そのやり方には息子の義龍をはじめ、家臣からも不満を抱かれていたことがわかります。 長良川の戦いで明智光秀や織田信長はどうしたか 明智光秀の動向 この「長良川の戦い」において明智家は道三に味方した為、義龍軍に囲まれた明智城は陥落し、叔父の光安はこの合戦で命を落としました。 この時、明智光秀も城にこもっており、叔父の光安と共に最後まで戦うと言いますが、光安は「お前は生き延びて必ず明智家を再興してくれ!」と言ってこれを許しませんでした。 その言葉を受けた明智光秀は、身ごもっていた妻の 煕子 ひろこを背負って逃げ延びました。 そして流浪の末に越前までたどり着き、そこで朝倉家に仕えることになるのです。 織田信長の動向 斎藤道三の義理の息子である織田信長は、道三に味方するべく自ら兵を率いて援軍を送ります。 美濃に向かう途中まで兵を進めますが、合戦には間に合いませんでした。 道三を破った義龍軍の兵は勢いに乗り、とうとう織田信長がいた場所まで攻め込んでくると両軍は河原で激突します。 この状況でようやく道三の死が信長の元に伝わると、信長はやむを得ず退却することにし、自らがしんがりを努めて尾張へと戻ったのでした。 斎藤道三と斎藤義龍の親子が争った「長良川の戦い」の経緯のまとめ 最後に、斎藤道三と斎藤義龍の親子が争うことになった「長良川の戦い」に至ってしまった理由と経緯をまとめておきます。 斎藤道三と斎藤義龍の関係が悪化した理由• 道三が息子である義龍よりも義理の息子の織田信長を評価した• 義龍よりも弟たちの方を可愛がった• 義龍は道三の実の息子ではない事がわかったから (義龍の出生については定かではない) 「長良川の戦い」の経緯:明智光秀や織田信長の動向• 義龍が弟の龍重・龍定を殺害する• それを聞いて道三は大桑城へ移り、義龍との決戦を決意する• 義龍軍17,500人vs道三軍2,700人• 義龍軍が道三の首を打ち取り、義龍の勝利に終わる• 明智光秀は道三側に味方し、逃げ延びて越前へ向かう• 織田信長も道三側に味方するも、合戦に間に合わず退却する 下剋上の代名詞として「美濃のマムシ」と怖れられた斎藤道三も、それまでの過激な行いがアダとなり、最後は息子の義龍に殺害されてしまったわけです。 これにより、美濃を追われた明智光秀や、道三の後ろ盾を得ていた織田信長の状況はガラリと一変します。 大河ドラマ「麒麟がくる」においても、この「長良川の戦い」は前半の大きなポイントになることでしょう。 はたしてどのように描かれるのか、それも見どころのひとつですね。 ちなみに、斎藤道三が「美濃のマムシ」と呼ばれるようになった理由について下記の記事でまとめています。 なぜこれほどまでに恨まれてしまったのか、それを解くヒントになると思いますので、こちらもぜひ読んでみて下さい。 さて、このブログでは他にも大河ドラマ「麒麟がくる」の時代背景を取り上げた記事を掲載しています。 登場人物の関係性など、ドラマでは描ききれなかった裏側についても書いていますので、さらに深く楽しみたいと思った人はこちらも併せて読んでもらえると嬉しいですね。

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