ジョン メリック。 デイヴィッド・リンチ自身が監修「エレファント・マン 4K 修復版」7月公開

ジョン・ハート (俳優)

ジョン メリック

19世紀末のロンドン。 デビュー作『』が伝説的なカルトムービーとなった、デヴィッド・リンチの長編第2作。 単純なヒューマニズムとは言いがたい、人間の残酷心理と本能を露呈した、異色のドラマ。 その奇怪な外見から、だれからも怖れられ、奇異の目で見られるジョン・メリック。 彼の内面が、本編に登場する何者よりも、穢れなく、人間らしさに溢れていることを知るにつけ、奇妙な罪悪感におそわれる。 彼をひとりの人間として扱う者、いつまでも見世物として扱い続ける者・・・・。 そう線を引いてしまえば、単純に行動をふたつに分けることができるけれど、内面まではわからない。 見世物小屋で彼を発見し、病院に入れた外科医フレデリックにあるのは、親切心だけなのか? 否、そこに名誉欲はたしかに存在している。 だからこそ、彼は悩み、「自分は善人であるのか?」と妻に問いかけることになるのだ。 とはいえ、フレデリックの努力と協力で、ジョンは人間らしさを取り戻し、病院内とはいえ尊厳を持って暮らし始める。 中盤、彼のところを訪れることが、ブルジョアジーたちの流行となる様は、とてもシニカル。 後を絶たない来客者との面会のなかで、ジョンの物腰がさらに気品と知性を兼ね備えていくけれど、、、心ない者は、外見とのギャップを滑稽だと笑うのだった。 人間らしく賢明であろうとすればするほど、かなしい独りよがりを続けることになるジョンが痛々しい。 ついに、病院を飛び出し、フリークとして見世物小屋へ逆戻りしてしまうジョンの哀しさは、想像するに余りある・・・。 隔離病棟の一室で、ジョンが一心に作り続けるペーパークラフトが、彼の心を象徴していた。 人目をひく外見から、外出さえできないジョンは、屋根しか見えない窓の外の礼拝堂を、想像にたよって工作して過ごしている。 まるで箱庭療法のように。 動物じゃない、ひとりの人間として生まれ変わるま日で、そのペーパークラフトは、少しずつ出来上がり、崩れたりしながら、見事に完成される時がやってくる。 亡き母親の代わりに、ジョンに母性を与えた、名女優の存在も忘れがたい。 フレデリックの招待で生まれて初めて舞台を観た、感激したジョンの姿が印象的。 幻想的でものすごく美しい劇中劇は大好きだった。 女優役はアン・バンクロフト。 バンクロフトといえば、20年前、『奇跡の人』で奇跡のケアを成し遂げたサリヴァン先生役が有名。 本作では、夫で映画監督でもあるメル・ブルックスが製作総指揮に携わっている。 ジョン・ハート演じる物悲しいエレファントマンの仕草が素晴らしかった。 苦悩する善意ある医者には、若きアンソニー・ホプキンス。

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エレファント・マンのレビュー・感想・評価

ジョン メリック

幼少年期 [ ] 出生と両親の出自 [ ] 、・で、ジョゼフ・ロックリー・メリック Joseph Rockley Merrick - を父、メアリー・ジェイン Mary Jane 旧姓ポタートン Potterton - を母として生まれる。 父の名と、の信者であった母親の意向により、同派のに因んで、「ジョゼフ・ケアリー」と命名される。 父ジョゼフ・ロックリー・メリックは、ロンドン生まれの靴下製造業関連の職人バーナバス・メリック Barnabas Merrick - の子。 バーナバスは妻とともに1820年代から30年代の間にレスターに移住している。 母メアリー・ジェインはレスター近郊・エヴィントンの出身。 その父ウィリアムはレスター近郊のサーマストンで農作業に従事していた人物であった。 メアリー・ジェインは六人きょうだいの第一子で、身体に障害を有し ながらも、12歳で基礎教育を修了すると、レスター近郊のある邸宅でメイドとして働き、一時期はの教師も勤めた。 二人が結婚したのはのことで、当時のジョゼフ・ロックリーの職業はの御者であった。 家庭環境 [ ] 夫妻が最初に居を構えたのはレスター市内のリー・ストリートなる地区であったが、付近は入り組んだ路地に沿って小さな住宅が建て混み、水道の設備も貧弱、毎年の如く繰り返される近隣のソア、の氾濫の後は一帯が冠水し、あたりは汚水やごみに埋め尽くされる、といった環境下にあった。 ジョゼフ・ロックリーは結婚後間もなく紡績工に、次いでより高給の倉庫の作業員に職を転じていて、メリックが生まれたのはその時期のことであった。 夫妻は彼のほか、生まれで、生後三ヶ月でのために夭折した次男ジョン・トーマス John Thomas 、生まれの三男ウィリアム・アーサー William Arthur 、生まれの長女マリアン・イライザ Marion Eliza を儲けている。 マリアン・イライザもまた身体に障害を有していた。 ジョゼフ・ロックリーはウィリアム・アーサーの誕生の少し前に、よりよい生活環境を求めて転居、職も紡績工場の罐焚き夫に転じて、マリアン・イライザの誕生後には紡績工場の機関手となった。 頃からはその勤めと並行して自宅で衣料品店を開業し、までは地域の商工業者の一人として名鑑にもその名を掲載されている。 店舗と兼用していた住宅も、後には別の地所に家を建てて移り住んだ。 かわりゆく家族 [ ] 好調と見えた一家の生活であったが、1870年には三男ウィリアム・アーサーがで夭折。 母メアリー・ジェインは悲しみにくれつつも 、残る子供たちの育児と、衣料品店の切り盛りに忙殺されていたが、メリックが11歳であったに過労に起因するで倒れ、同年に36歳で死去した。 父ジョゼフ・ロックリーは自らの仕事のほか、これまでは妻任せであった店、育児をも一手に引き受けることとなり、限界を感じたか家を引き払って一家で下宿生活に入る。 下宿の家主はエマ・ウッド・アンティルなる子持ちの寡婦で、ジョゼフ・ロックリーは彼女に育児を手伝ってもらっていたが、翌12月には彼女と再婚、一家はかつて住んでいた衣料品店を再び住まいとした。 苦難の歳月 [ ] 病変の出現 [ ] 出生時のメリックの身体には何の異常も認められなかったが、生後21ヵ月頃に最初の病変が、口の下付近の硬い腫れ物として出現、これは数ヶ月のうちに右頬にかけてのこわばった腫瘍となって拡がり、やがて口の中からはピンク色の肉塊が突き出てきて上唇を外側に押し出していった。 さらに成長するにつれ、額には骨の瘤が出現、皮膚は弛んできめが粗くなり、右腕、両足の異常な肥大も始まるに至って、全身のプロポーションが損なわれていった。 これらはやがて左腕などを除く皮膚、骨格の大部分に及ぶ、終生続く大きな膨張と変形へと進行することとなる。 また弟ウィリアム・アーサー誕生のころに転倒して左の腰を痛め、ついでも併発して、以降終生歩行困難となった。 若き日の苦闘 [ ] それでも12歳で公立学校を卒業し、を製造するメッサーズ・フリーマンズ葉巻製造会社に就職。 しかし2年後には右腕の変形が進んで離職せざるを得なくなり、父の支援の元に人の免許を取得、父の衣料品店の商品である靴下や手袋などを売り歩いた ものの、容姿が災いして営業は困難を極めた。 やがてかねてからの継母との不仲 もあり家出、を泊まり歩く生活をへて、以前からメリックに好意的であった叔父のチャールズ・バーナバス・メリック Charles Barnabas Merrick の家に同居人として迎えられたが、このころには症状の進行により、彼が街頭に立つと周囲にパニックが発生するほどになっており、ほどなく行商人免許を剥奪された。 やがて自らの意思で叔父の家を出、レスター市救貧委員会に出頭、を理由に救済を申し立てて受理され、、17歳でレスター・ユニオンに入った。 ヴィクトリア朝期の救貧院の一例・オーガスタス・プーギン設計の「コントラスティッド・レジデンセス・フォー・ザ・プアー」 レスター・ユニオン救貧院は、に400人の貧困者を収容する計画の下設立され、後年レスターの主要産業である関連業が不況に陥り、多くの失業者、貧困者が生まれるや、には1000人を収容可能な規模に拡張されたものである。 メリック入所当時には、身寄りや保護者のいない老人、寡婦、孤児、者、身体障害者、知的障害者、精神障害者のほか、失業者とその妻子、浮浪者、そして故意に働かず救貧院を生活の場にしている者ら928名が収容されていた。 彼らは年代、性別、健康状態などにより、親子、夫婦をもばらばらにした個人単位でグループ分けされて生活。 収容者はベルを合図として起床、就寝し、男性には廃材や石材の加工、農作業、薪割り、粉挽きなど、女性には洗濯、清掃、調理場や食堂での雑務、寝具や衣服の縫製や修繕などの仕事が課され、以外は食事も極めて粗末であったし、酒、たばこは禁止、面会、外出は許可制で、就寝時には部屋を施錠された。 そして規則に反した者には食事制限や恩典の取り消し、監禁などといった罰則が下され、作業拒否や係員への暴力などといった、特に悪質な違反のあった者は治安当局に通報の上、刑務所に送られることもあった。 また当時のこの種の施設の常として衛生環境は劣悪で、日常的にが流行した。 メリックは病弱者や身体障害者らのグループに属してここでの日々を過ごしていたが、こうした生活環境はメリックにとって耐え難いものであったようで、翌年のには自らの意思により退所、職を求めて2日間街頭をさまよい歩いたものの果たせず、再び救貧院に戻っている。 ・20歳の時には、上あごにあった象の鼻のような形の20センチほどの肉塊の切除手術をレスター施療院で受けた。 見世物小屋へ [ ] 「エレファント・マン」誕生 [ ] 救貧院での生活に甘んじていたメリックであったが、・22歳の時に奇形者を出演させる興行師兼コメディアンのサム・トー Sam Torr の存在を知り、自らの身の上を手紙に認めて送ったところ、トーはメリックと面会して彼を見世物興行の世界に入れることを決め、これに伴いメリックはこの年のにレスター救貧院を退所。 トーは実業家サム・ローパー Sam Roper とJ. エリス J. メリックはおそらくエリス所有の演芸ホール「ザ・リビング」で初舞台を踏み、その後は近隣のいくつかの都市を巡演したものと考えられている。 ・ロードに現存する、メリックが出演する見世物興行が催されていた建物。 写真撮影当時は [ ]の販売店 また会場では、メリック自らが半生を綴ったとされる「ジョゼフ・ケアリー・メリックの自伝」 "The Autobiography of Joseph Carey Merrick" と題された小文が掲載されたパンフレットも販売されていた。 その小文には、彼の奇形が「彼の母親が彼を妊娠中、で町を訪れた移動動物園のパレードを見物しに行ったところ、誤って行進して来た象の足元に転倒、強い恐怖を味わった ことが原因」だと書かれていたが、興行師はこれと同じことをメリックの見世物の開演前に、客に口上として申し述べ、客の好奇心を煽っていた。 医師トレヴェスとの出会い [ ] ジョゼフの親しい友人でもあった医師フレデリック・トレヴェス 1884年 この年、ノーマンはメリックを伴ってロンドンに出向き、・ロードので興行をうった。 ホワイト・チャペルのロンドン病院の医であったフレデリック・トレヴェスはこのことをきっかけとしてメリックの存在を知り、自ら診察。 トレヴェスは12月にはロンドン会でジョゼフの症例を報告し、このときにはジョゼフ自身も標本として回覧に供されている。 翌年3月には同学会で再びメリックの症例をテーマとした、写真を用いての研究発表が行われ、これをもとにロンドンのユニバーシティ・カレッジの医ヘンリー・ラドクリフ・クロッカーはジョゼフを「および神経腫性」と診断した。 流転の月日 [ ] しかし、このころより見世物小屋を公序良俗に反するものとして排斥する風潮が強まり、メリックの出演する小屋にも警察から閉鎖命令が下された。 ノーマンは都市部での興行継続を断念し、イギリス国内の地方小都市、寒村を転々と巡演するも、社会情勢もあってか不振が続き、やがてノーマンはジョゼフの興行権を人興行師 に売却。 メリックもこれに伴ってを離れ、を巡演する生活に入るが依然として振るわず、・メリック26歳の時、オーストリア人興行師はジョゼフの商品価値を見限るに至り、メリックの貯えを略奪して・で彼を放棄。 メリックはわずかな身の回りの品を質に入れて旅費を捻出し、まずはブリュッセルからまでを列車で移動、次いでアントワープから海路を経てイギリスのハリッジに上陸、再び鉄道を利用してロンドン・に到着、所持していたトレヴェスの名刺を手がかりに彼に保護を要請し、特例としてロンドン病院に収容された。 この間には物見高い群衆に幾度も取り囲まれたり、乗ろうとした汽船に乗船を拒否されたりといった筆舌に尽くしがたい辛酸をなめたといわれる。 しかし一方ではウォーデル・カーデュー なる人物から行路に関しての助言を得るという幸運もあった。 平穏な日々 [ ] 安住の家 [ ] だがメリックは当面の治療を必要としない慢性患者であったため、この措置も同年末には限界に達し、同年には事態打開を図るべく、ロンドン病院理事長フランシス・カー・ゴム Francis Carr Gomm の投稿が「」紙に掲載された。 そのなかでカー・ゴムは、メリックはその容貌ゆえに就業は不可能であり、よって経済的自立も出来ない、一般の患者と一緒に療養させることも、他の患者に与える影響を考えればやはり避けるべきだが、難病患者のための公的な療養施設である王立施療院、国立養護ホーム には共に受け入れを拒否された、そして本人は救貧院を非常に強く忌避している、といった事情を説明し、メリックを居住させるための個室の設置と、今後の彼の生活のための資金の寄付を求めた。 には『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』誌もカー・ゴムの投書について報じ、他の多くの一般紙、地方紙もこれに追随。 これらの報道の結果膨大な量の手紙、多額の寄付金が寄せられ、年金の支給を申し出る篤志家も現れた が、一方では彼を盲人病院、灯台、刑務所といった場所に送れという投書もわずかながら寄せられたという。 こうした社会の反応を踏まえ、理事会はメリックの収容延長を決定。 ロンドン病院付主任技師であったウィリアム・テイラーの主導のもと、「ベッドステッド・スクエア」と呼ばれていた中庭 に面した、大小二つの地下室がメリックの住居として改装された。 大きい方の部屋は居間兼寝室として、ベッドやテーブル、数脚の椅子、小さな暖炉が備えられ、小さいほうのもう一部屋は浴室となった。 そしてトレヴェスの方針により、どちらの部屋にも鏡は一つも設置されなかった。 ひらかれてゆく心 [ ] 病院収容当初、ジョゼフは身辺に近づこうとする者に疑いの眼をむけ、苛立って震えだすこともあったほか、看護婦が差し伸べてくる手をも怖がったり、今度移されるのなら盲人の収容施設か灯台にしてくれないか、と言うなど、落ち着かない様子が目立ったが 、トレヴェスをはじめとする周囲の人々が、彼の口の変形ゆえの 聞き取りにくい言葉に慣れ、次第にそれを理解するようになるにつれ、メリックの態度も次第に穏やかなものになっていった。 トレヴェスもまた、毎日最低一回メリックの部屋を訪れるように努め、日曜日には午前中の数時間をメリックと過ごすようにしており、コミュニケーション上の問題ゆえの、彼が重度の知的障害者なのではないかとの当初の考え をほどなく改めるにいたった。 メリックの側も次第にトレヴェスに心を開くようになっていったが、自らの過去、とりわけ父やきょうだいのことは語りたがらなかった。 しかし母親に関しては「美しい人だった」と言い、そうした母親からなぜ自分のような人間が生まれたのかを不思議がるのが常であったという。 見世物小屋に出ていた頃のことも話したがらないものの、興行師のことは決して悪く言わなかった。 ところが救貧院のことに話が及ぶや、激しい怒りをあらわにした、といわれる。 幼少時から、病気ゆえに人間社会から疎外されることが常であったメリックは、その孤独を読書によって癒していたといわれる。 読んでいたのは各種の新聞、雑誌、純文学、大衆小説、そして聖書、祈祷書などで、それらは捨てられていたものを拾うなどして偶然に入手したものであったため、得ていた知識も雑駁で偏ってはいたものの、ともかくもメリックは、それらを介して自らの世界観を作り上げていた。 それまで中産階級の市民の家の中を見たことがなかったメリックの希望に応え、トレヴェスが自宅を見学させた際には、豪邸を期待しているかもしれぬメリックを裏切るわけにはいかない、という考えから、私の家はの『エマ』に描かれているようなごく普通の、つつましい庶民の住まいなのだ、とトレヴェスは説明し、読書家のメリックを納得させたという。 やがてトレヴィスのとりなしで、彼の知り合いである「若くて美しい未亡人」 Mrs. Lelia Maturin との面会を経験するに至り、徐々に他人との交流を求めるようになっていったという。 この面会はごく短いものであったが、微笑みつつ部屋に入ってきた Maturin に、メリックは一言も発することができず、やがて彼女の手を離すや嗚咽をもらし、やがてすすり泣いたという。 後にメリックは女性に笑いかけられたり、握手を求められたりしたのはこのときが初めてだったと告白した。 Maturinとの親交はその後も続き、彼女からプレゼントを贈られた際にはメリックは感謝の手紙を送っているが、これは今日、現存する唯一のメリックが書いた手紙となっている。 メリックがMrs. Lelia Maturinに宛てて書いた手紙 メリックの書いた手紙として現存する唯一のもの 医師たちが見たメリック [ ] トレヴェスは自らの後輩である研修医たちに、空き時間を利用してメリックを見舞うように命じていた。 それに従っていた研修医のひとりウィルフレッド・グレンフェルは後に著した自伝「の一医師」のなかで、メリックが自分の容姿を神経質に気にしていたこと、また正常であった左手を誇りとしていたことを記し、レジナルド・タケットもまた、メリックが感じていた自分の左手への誇りや、美しいものや立派な衣服を好む彼の嗜好を語っている。 一方でD. ハルステッドは回想録に、彼の顔は象よりもに似ていると思った、だが「バク男」では見世物小屋のキャッチフレーズとしては不適当だったろう、と冷ややかな観察を記し、メリックのもとをたずねた後、ほかの持ち場に戻るときにはほっとするのが常だった、とも告白している。 上流社会の寵児 [ ] カー・ゴムの投稿掲載以降、メリックの存在は上流階級の人々の関心を惹くところとなり、メリックへの面会希望が相次いで寄せられるようになった。 彼らは骨董品や絵画、自分たちのサイン入りの写真などといったプレゼントを持参していたが、読書家であったメリックは特に本を贈られることを喜んだといわれる。 メリックに関わった著名人の一人には、生涯を通じて慈善活動に積極的だった高名な女優、もいた。 彼女は俳優だった夫を通じてメリックの存在を知り、当時はまだ発明されて日の浅いを贈ったり、メリックの希望に応じてかご細工の教師を彼のもとに派遣するなどした。 メリックもこうしたケンドールの厚意に応えて最初のかご細工の作品や、看護婦たちの手助けも得て作り上げたボール紙製の大聖堂の模型を彼女に贈っている。 メリックが看護婦たちと作り、ケンドールに贈ったボール紙製のマインツ大聖堂の模型 には当時のイギリス皇太子・エドワード のちの と、その妃・がホワイト・チャペルにあるロンドン病院付属医科大学の新館、看護婦寮の落成式に出席した際、メリックの部屋を訪問した。 この年のにはドルリー・レーン劇場で劇「」を観劇したともいわれる。 この折にはケンドールの助力により、バーデット・クーツ男爵夫人所有の特別席を使用した。 また夏にはナイトレー夫人の厚意により近郊のフォースリー・パークに6週間滞在、田舎暮らしを経験した。 またこのころ次第に宗教への関心を深め、ロンドン病院付きの牧師トリストラム・ヴァレンタインの影響によりの教義に親しみ、やがてウィリアム・ウォルシャム・ハウの司式によるが行われ、同教会に改宗した。 突然の死 [ ] 、すでにかなりの衰弱をみせていたメリックは、正午まで起き出さないのが通例になっていた。 彼の係であった看護婦・アイアランドがこの日も必要な世話をしたが、特に変わった様子はなく、午後1時半にはメイドが昼食を運んで来、好きな時間に食べられるように置いていった。 3時を少し回ったころ、定例の午後の回診にきたトレヴェス付きの研修医・ホッジスが、ベッドに仰向けに寝た姿勢で亡くなっていたメリックを発見する。 27歳だった。 昼食はメイドが置いていった場所に手をつけずにそのまま残されており、ホッジスは自分の一存で遺体に触れぬほうがよいと判断、先輩であるアッシュの立会いを求め、死後最初の検査はこの両名によって行われた。 死後直ちに検死官ウィン・バクスターによって検死陪審が開かれ、メリックの叔父チャールズ・バーナバスによる形式的な遺体確認のあと、生前のメリックを最後に見たアイアランド、死んでいる彼を最初に見たホッジスがそれぞれ証言、それらにもとづいて、死因はの脱臼あるいは窒息による自然死と判断された。 翌朝の『タイムズ』紙には、「エレファント・マンの死」なる大見出しと共にその詳細が報じられ、併せてロンドン病院理事長のカー・ゴムのメッセージも合わせて掲載された。 生前のメリックに支援を寄せた人たちへの感謝の辞とともに、彼らから寄せられた寄付金の残金の今後の扱いとして、各方面に必要と考えられる謝礼を支払った後、病院の一般会計に組み入れる予定である旨が報告された。 一方で医学専門誌『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』にもメリックの最後の日々やその死因などに関する記事が掲載された。 一説には仰向けに寝ることを試みた際の事故、また自殺説も取り沙汰された。 がに製作した『蘇るエレファントマン』では、彼の骨格標本を詳細に検査したところ、頚椎の損傷具合から彼独特の就寝方法 を取ろうとした際に、頚椎が脱臼し、絶命。 そして結果として巨大な頭部の重みで仰向けになった状態で発見された事故と結論付け、自殺説を否定している。 死後、亡骸各部の石膏型および骨格標本が保存されて研究の対象となっているほか、彼の使用した帽子や本人が組み上げた建物の模型等、いくつかの遺品は博物館で見ることができる。 皮膚などの組織標本も保存されていたが、下で失われた。 ゆかりの人々のその後 [ ] にはジョゼフの生地レスターで父ジョゼフ・ロックリー・メリックがのため死去。 死亡届を提出したのは家族ではなく、臨終に立ち会った隣家のジョージ・プレストンであった。 なお公的記録の不備により、叔父チャールズ・バーナバス・メリックに関してはレスターでまでは生存していた、としか分かっていない。 身体に障害のあった妹のマリアン・イライザは1891年ににより死去している。 にはフレデリック・トレヴェスが「エレファント・マンとその他の思い出」を出版し、に死去し、同年にはサム・トーも死去した。 医学的な所見 [ ] メリックの疾患は、骨格の変形と皮膚の異常な増殖からなっていた。 皮膚は各所で乳頭状の腫瘍を示し、とくに頭部や胴部では皮下組織の増大によって弛んで垂れ下がっていた。 右腕・両脚がひどく変形肥大して棍棒のようになっていたのに対し、左腕や性器は全く健全だった。 上唇から突出した象の鼻状の皮膚組織が一時は20センチ近くに達し、このため会話や食事は終生不自由で、救貧院時代にいったん切除している。 会話は困難で発音が聞き取りにくかったとされているが知能は正常で、12歳までは学校にも通っていて読み書きは堪能だった。 また少年時代にひどく転んで腰を痛め、脊柱も湾曲しており、歩くときは杖が必要だった。 原因については当時から、レックリングハウゼン病などとして知られる、また俗にはと結びつけて考えられてきたが、近年では特定の遺伝的疾患群をさすとする見方が有力である。 大衆文化 [ ] からにかけて、舞台と映画の両方で彼の生涯が取り上げられ、再びメリックは脚光を浴びることになった。 両作品はいずれも大成功を収め、1979年の演劇作品『』はを受賞、また翌年の映画『』はに推された。 両作品の切り口は互いに異なり、内容的には関係がない。 詳しくはそれぞれの項を参照。 ジョゼフ・メリックを扱った作品 [ ] 映画• - 1980年のアメリカ映画。 - のイギリス戯曲。 オペラ• ( Joseph Merrick dit Elephant Man) - 2月7日、で初演された(初演のものではないが、CD、DVD化もされている)。 ドラマ• - イギリスBBCのドラマ。 2013年放映のシリーズ2のエピソード1~2にメリックおよびトレヴェス医師が登場する。 ドキュメンタリー• 蘇るエレファントマン - 2011年の製作のドキュメンタリー番組。 ジョゼフの骨格標本を元に、最新の3D技術で歩行方法、肉声、死因等を追求している。 一八八八切り裂きジャック(、角川書店、2002年3月) - 物語上で、の協力者として推理される。 漫画 -1999年に刊行された 作、 ()画の。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 彼の名をジョン・メリック John Merrick とする記述は医師フレデリック・トレヴェスの表記に由来する誤記である。 英語版ページより。 ハウエル、フォード、本戸 裏表紙と口絵に図版収録。 ただし「エレファント・マン」の表記はそれらにはない• これにはヨーロッパで非常に古くから信じられ、16世紀においては外科医までもが肯定していた「妊婦が強い恐怖、不快な印象、特異な印象を抱くと、生まれてくる子供にそれが身体の障害やあざ、しみ、色黒の肌などとなって出現する」という迷信 からの影響が強く感じられる。 ちなみにメリック誕生の3ヶ月ほど前、彼の生地レスターで催された五月祭には「ウームウェル・ロイヤル・メナジェリー」なる移動動物園が実際に来演しており、当時の常として象も連れてこられていた。 この人物の名はFerrariだったともいわれる 英語版ページより。 この人物に関する詳細は不明だが、何らかの形で医業にかかわっていた人物と考えられ、人気俳優W. ケンドール 女優マッジ・ケンドールの夫 に宛てた手紙のなかに「オステンデでこの上もなく痛ましい患者を診た」と書いていることから、メリックに接触したことが類推できる。 これらの施設の邦訳名はハウエル、フォード、本戸133ページに所収のもの。 英語名は"The Royal Hospital for inclables" "British Home for Inclables"• ロンドン病院で使われていたベッドの骨組みの修理、点検が行われる場所であったことからこう呼ばれていた• 「彼の話す言葉はまるでわからない。 口から突き出た大きな骨の塊がじゃまをして、明瞭な発音が出来なかった・・・・私は、メリックが知恵遅れで、生まれながらの低能に違いないと思っていた・・・・彼の顔はいかなる表情もつくれず、態度はいっさいの感情や関心を欠く人間のそれとしか見えなかった 」• ケンドールの夫はメリックに会っているが、ケンドール自身はメリックに会っていないといわれる。 また、メリックがロンドン病院にとどまれるように募金を呼びかけたのは自分だ、と後に自叙伝に書いているが、これは事実ではない。 その頭部の巨大さから普段はベッドの上に座り抱えた両膝に頭を乗せるようにして寝ていた。 出典 [ ]• ハウエル、フォード、本戸 57,71ページ• ハウエル、フォード、本戸 60ページ• ハウエル、フォード、本戸 57ページ• ハウエル、フォード、本戸 77ページ• ハウエル、フォード、本戸 76ページ• ハウエル、フォード、本戸 82ページ• ハウエル、フォード、本戸 80,248ページ• ハウエル、フォード、本戸 83-4,248ページ• ハウエル、フォード、本戸 90-93ページ• ハウエル、フォード、本戸 188-191ページ• ハウエル、フォード、本戸 口絵、69,71,72ページ• ハウエル、フォード、本戸 123-4,133ページ• ハウエル、フォード、本戸 124ページ• ハウエル、フォード、本戸 141,3ページ• ハウエル、フォード、本戸141ページ• ハウエル、フォード、本戸 145,157,270ページ• ハウエル、フォード、本戸 137,145-6,155,265-7ページ• ハウエル、フォード、本戸 256-7ページ• ハウエル、フォード、本戸 148-150ページ• ハウエル、フォード、本戸 151-3ページ• ハウエル、フォード、本戸 166-7ページ• ハウエル、フォード、本戸 156-7,269ページ• ハウエル、フォード、本戸 146-8ページ• ハウエル、フォード、本戸 164ページ• ハウエル、フォード、本戸 161-2ページ• ハウエル、フォード、本戸 163-4ページ• ハウエル、フォード、本戸 210ページ• ハウエル、フォード、本戸 210-5ページ• ハウエル、フォード、本戸 238ページ 参考文献 [ ]• マイカル・ハウエル、ピーター・フォード 『エレファント・マン - その真実の記録』 訳、、• ウィリアム・メイプルズ 『法人類学者の捜査記録 骨と語る』 訳、、、398頁。 外部リンク [ ]•

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【エレファント・マン】 1980年 疎外されつづける象人間の悲哀

ジョン メリック

ジョゼフ・ケアリー・メリック(1862年8月5日-1890年4月11日)はイギリスの男性、見世物芸人。 世界で最もひどい身体変形による畸形として知られている。 当初は 「エレファント・マン」という芸名でフリークショーに出演していたが、のちに外科医のフレデリック・トレヴィスの紹介でロンドン病院に移る。 入院後、大手新聞『タイムズ』や地方誌など、多くの新聞で彼の経済支援が呼びかけられ、イギリス社会で一般的に認知されるようになった。 メリックはイギリスのレスターシャー州レスターで生まれるが、産後しばらくして身体に異常が起きはじめる。 原因は不明。 11歳のときに母親が亡くなると父親は再婚。 メリックは父親と継母の両方から嫌われ家を追い出されることになり、叔父のチャールズ・メリックのもとへ身を寄せる。 1879年、17歳のときにレスター・ユニオン救貧院に入院する。 1884年にサム・トーという興行師と出会い、トーからフリークショーの出演依頼を受け、見世物芸人になる。 トーはメリックに「エレファント・マン」という芸名を付け、また、彼をマネジメントするための組織を作る。 ミッドランド東部でメリックの巡業興行が開催されたあと、ロンドンへ移り、興行師のトム・ノーマンが運営していたペニー・ガフというワーキングクラス用の演芸場に見世物として出演する。 このノーマンの店に診察依頼を受けて、外科医のフレデリック・トレヴィスが訪れる。 1884年にロンドン病理学会の会議でトレヴィスによりメリックが紹介されたあと、メリックの存在を知った警察がノーマンの演芸場を強制的に閉鎖する。 職を失ったメリックはその後、サム・ローパーのサーカス団に加わり、イギリスを出国して、ヨーロッパ巡業を行うことになった。 しかし、巡業は振るわず1886年・メリック26歳のとき、オーストリア人の興行師がジョゼフの商品価値を見限り、メリックが貯えていた約80万の現金を略奪してベルギー・ブリュッセルで彼を放棄する。 一文無しになったメリックは自力でロンドンへ戻り、トレヴィスを頼る。 以後、残りの生涯をロンドン病院で過ごすことになった。 外科医のトレヴィスはが毎日彼のもとを訪問し、2人は親密な友情を育んだ。 当初、対人恐怖症だったが、トレヴィスが紹介した女性との親交をきっかけに、徐々にコミュニケーションを行うようになる。 メリックはロンドン社会の上流階級の男女からも歓迎され、さまざまな人の訪問を受けた。 イギリス国王エドワード7世の妃でイギリス王妃のアレクサンドラ・オブ・デンマークが訪問をしたこともあった。 メリックの公式な死因は窒息死だが、検死を行ったトレヴィスによれば正確には首の脱臼が死因だという。 メリックの病名は生前は不明だったが、1986年にプロテウス症候群が原因の身体の極度な変形と推測された。 2003年にメリックの髪の毛や骨からDNA検査が行われたが、決定的といえる病名をくだす証拠は出なかった。 メリックの生涯は、おもに1979年にバーナード・ポメランスによる演劇や1980年にデビッド・リンチによる映画で紹介されている。 「エレファント・マン」ことジョゼフ・ケアリー・メリックは1862年8月5日、イギリスのレスターシャー州にあるレスターのリー通り50番地で、父ジョゼフ・ロックリー・メリックと母メアリー・ジェーンの間に生まれた。 母メアリー・ジェーン・ポッタートン(1837-1873年)はレスターシャー州のエビントン生まれで、彼女の父ウィリアム・ポッタートンは1851年のレスターシャー州サーマストンの人口調査によれば、農業労働者だったと記録されている。 なお、母メアリーは何らかの身体障害を抱えており、父ジョゼフ・ロックリー・メリックと結婚する前はレスターシャー州で家事使用人として働いてた。 1861年に倉庫業者だった父ジョゼフ・ロックリー・メリックと出会い結婚する。 翌年1682年、ジョゼフ・ケアリー・メリックが誕生。 産まれた直後は一見すると健康な状態で生まれ、数年間は特に大きな身体異常は見られなかったという。 ジョゼフ・ケアリーという名前は、父親のファーストネームの「ジョゼフ」と、母親が信仰していたパブテストの宣教師ウィリアム・ケアリーの名前にちなんで、「ケアリー」がセカンドネームとして付けられた。 ジョゼフ夫妻にはケアリーのほかに少なくとも2人以上の兄弟がいたとされている。 弟のジョン・トーマスは1864年4月21日に生まれ、同年7月24日に天然痘で亡くなっているが、彼は夫妻と関係がない子どもだったという。 1866年1月生まれの弟ウィリアム・アーサーは1870年12月21日に4歳で猩紅熱で亡くなっており、1870年のクリスマスに埋葬されている。 ウィリアムの遺体はレスターにあるウェルフォードロード墓地にある母親と叔母と叔父と同じ墓に埋葬されている。 1867年9月28日に生まれた妹マリアン・エリザは身体障害者で、1891年3月19日に骨髄炎による発作で死去。 マリアンはベルグレーブ墓地にある父方の方の墓に埋葬されている。 アシュレー・モンタギューの著書『エレファント・マン』によれば、外科医のトレヴィスが1923年に刊行した『エレファントマン』で、ファーストネームを「ジョゼフ」ではなく「ジョン」と記載していたが、これは1864年4月21日に生まれの弟ジョンと混同した誤植だという。 ジョゼフの見世物興行にあわせて1884年に出版された小冊子『ジョゼフ・ケアリー・メリックの自伝』によれば、 畸形症状は5歳ぐらいのときに現れており、 「しわくちゃのしこりのある肌、それはまるで象のような色」と記載されている。 1930年に発行された新聞『イラスト・レイサー・クロニクル』の記事によれば、生後21ヶ月で、まず唇が腫れはじめ、続いて額にこぶができ、肌がゆるんで荒れ出したと記載されている。 ジョゼフは成長するにつれ、左右の腕の大きさに顕著な差異が現れ、両足は著しく肥大化。 メリック一家は息子の症状について、母メアリーが妊娠しているときにサーカスで見た象にびっくりして怯えたことが原因であると説明している。 胎内感応概念、つまり妊娠中の女性が感じた経験は生まれる子どもの身体に影響が現れるという学説は、19世紀当時のイギリス社会一般に浸透していた迷信だった。 メリックは生涯自身の病気の原因は胎内感応であると信じていた。 畸形の病気にくわえ、幼年期にメリックは転倒で左腰を負傷している。 このときの傷はほかの場所へ二次感染し、歩行困難となる原因にもなった。 身体的な畸形による影響はあったがメリックは他の子どもたちと同じ学校へ通い、母親とは親密な関係を育んでいた。 母親は日曜学校の先生で、父は紳士用衣服事業を経営し、また綿織物工場で技師として働いていた。 1873年5月29日、弟のウィアリムの死後3年足らずで母親が気管支肺炎で亡くなる。 父ジョゼフ・ロックリー・メリックは2人の子どもを連れて、未亡人でシングルマザーのエマ・ウッド・アンティルと同棲をはじめる。 2人は1874年12月3日に結婚した。 メリックは13歳で退学する。 ここまではほかの子どもたちと同様にごく普通に生活できていたが、これ以降はひたすら悲惨な人生となる。 父親も継母もメリックに愛情を示すことはなかった。 メリックは2、3度家出をこころみたが、毎回父親に連れ戻された。 13歳のときにメリックは煙草製造の工場に勤めるが、3年後には右手の変形の悪化で仕事をするのに必要が道具が持てなくなってしまい離職する。 失業後、しばらく次の職を探しつつ、継母に対する煩わしさを避けるため自宅にはあまり滞在せず、路上をさまよいながら日々を過ごしたという。 このころ、メリック一家の家計が増えはじめたこともあり、父は少しでもお金を工面するためジョゼフに雑貨の訪問販売資格証を与え、働かせようとする。 しかし、メリックの顔面の変形は年々すひどくなり、 二次障害で何を言っているのかもわからないほどの言語障害が生じ、とてもセールストークできる状態ではなかった。 さらに、 得意先の客はメリックの容貌に恐怖を示すようになり仕事どころではなかった。 主婦たちはジョゼフが訪問しに来ると、怖がってドアを開こうとしなかった。 周囲の人たちは彼をじろじろ見るだけでなく、好奇心から彼の後をつけはじめた。 結局、メリックは営業仕事はうまくいかなかった。 1877年のある日帰宅すると、メリックは父親にひどく殴打され、以後家から出ることになった。 家を追い出されたメリックはレスターの通りでしばらくホームレスとなって生活する。 叔父で理髪師だったチャールズ・メリックがメリックの状況を聞きつけ、通りで彼を探し出し、自宅に宿泊させることになった。 メリックはその後2年間、レスター周辺で仕事を探し、ロンドン・タクシー会社に就職したものの、その醜い外観は一般の人々にネガティブな印象を与えたため、契約更新時に離職することになった。 また、叔父チャールズには幼い子どもがいたため、甥まで面倒を見る経済的余裕がなくなり、1879年12月下旬、17歳のときにメリックはレスター救貧院に入院する。 メリックは救貧院に住む1,180人の中の1人となった。 住居とする場所は救貧院のクラス・システムで決められており、ジョゼフは有能な男女クラスに分類されることになった。 1880年3月22日、入居から12週間して、メリックは自らの意思で救貧院を出て、2日間仕事を探して過ごすが、結局仕事は見つからず救貧院に戻る以外に選択肢がないことに落胆する。 その後、約4年間救貧院で過ごすことになった。 1882年ごろ、メリックは顔の手術を受ける。 口から突出した腫瘍は8〜9インチにまで達し、話すことや食事も困難になりはじめていた。 メリックは医師クレメント・フレデリック・ブライアン担当のもと作業室診療所で手術を受け、腫瘍の大部分を除去した。 メリックは救貧院から抜け出せる唯一の方法として見世物業界に入ることを思いつく。 メリックはサム・トーというレイサー・ミュージックホールのコメディアンで経営者に手紙で救貧院に訪問してくれないかコンタクトをとった。 その後、救貧院を訪れてメリックと面会したトーは、彼が見世物芸人として成功することを確信する。 ただし、メリックに対する一般庶民の好奇心を誘うには、巡業形式にする必要があると思い、その巡業を運営・管理するためにミュージックホール経営者のJ・エリス、巡回興行師のジョルジュ・ヒッチコック、フェアオーナーのサム・ローパーらとともに管理組織を設立した。 こうして1884年8月3日、メリックは救貧院から退院し、見世物芸人として新しい生活がはじまった。 興行師たちはメリックに 「エレファント・マン」という芸名を付け、 「半分は人間で、半分は象でできた男」というキャッチで宣伝を行った。 興行師たちはレスター、やノッティンガム、イースト・ミッドランズ周辺で興行を行い、その後冬季になるとロンドンで興行を行った。 メリックはおそらくエリス所有の演芸ホール「ザ・リビング」で初舞台を踏み、その後は近隣のいくつかの都市を巡演したものと考えられている。 ジョルジュ・ヒッチコックは、知り合いでロンドンのイースト・エンドで名珍品を展示するペニーグラフを経営していた興行師のトム・ノーマンに、メリックのロンドンでのマネジメント依頼を行う。 直接の面会なしで、ノーマンはロンドンでのマネジメント事業の引き継ぎに合意し、11月にヒッチコックはメリックともにロンドンを赴いた。 トム・ノーマンは初めてメリックに会ったとき、そのメリックの畸形のひどさにひどく驚き、そのあまりのおぞましさはきっと興行を成功へ導くだろうと感じたという。 しかし、ノーマンはパニックに発展するのを恐れてか、ホワイトチャペル・ロードにある空家となった店の後方に彼を隠すように展示した。 メリックのプライバシーを保護するために周囲にはカーテンがひかれ、ベッドも用意された。 ノーマンはある朝、メリックが膝を抱えて座った状態で眠ていたのを見て、横になることができないと理解した。 メリックの頭は肥大化し過ぎ、メリックによれば 「無理に横になると首が折れて目を覚ましてしまう」という危険性があったという。 ノーマンはヒッチコックが作成した 「半分は人間で、半分は象でできた男」というキャッチの入りのポスターを店内に貼り付けて宣伝を行った。 また 『ジョセフ・ケアリー・メリックの自伝』というタイトルのパンフレットが作成され、現在にいたるまでのメリックの生涯の概要が説明された。 そのパンフレットには、彼の奇形が「彼の母親が彼を妊娠中、五月祭で町を訪れた移動動物園のパレードを見物しに行ったところ、誤って行進して来た象の足元に転倒、強い恐怖を味わったことが原因」だと書かれていた。 この伝記はメリック自身が書いたものかどうかわからなかったが、彼のプロフィールが記載された公式のガイドブックとなった。 ただし、生年月日やいくつか間違いもあったので、生涯を通してメリックの幼少時に関することは曖昧なままとなった。 ノーマンは店の外に立ち、興行師ならではの口上でエレファント・マンを宣伝して人々を呼び集めた。 その後、興味を持った見物人たちを店に連れていき、彼を見ると多くの人々は怖がるのでカーテンの奥にいることを説明し、近くで見たい人だけメリックを鑑賞できるようにした。 エレファント・マンの見世物はそこそこ成功し、また自伝が書かれたパンフレットがよく売れた。 メリックはノーマンから見世物の利益の分け前を十分に貰い受けたこもあり、ある日、自分の家を購入するために見世物芸人として精一杯働こうと考えた。 ホワイトチャペル・ロードにある店は、ちょうどロンドン病院の向かい側にあったこともあり、噂を聞きつけた医学生や医者たちがたくさんメリックを見るために店を訪れた。 その中の1人にレジナルド・タッケットという若い研修外科医がいた。 タッケットはエレファント・マンの畸形に興味を持ち、先輩で同僚のフレデリック・トレヴィスにこの事を話した。 ノーマンが店を開く前、11月にフレデリック・トレヴィスはプライベートで初めてメリックのもとに訪れ、診察をした。 トレヴィスは、のち1923年に刊行した『随想録』で「メリックは私が今まで診察した中で最もひどい症状の患者だった。 メリックのような腐敗したようにひどく変形した畸形を診察したことはなかった」と回想している。 診察は15分程度でおわり、その後、トレヴィスはいったん仕事に戻ったが、その日の晩の遅くにタッケットを店へ使いにだし、精密な検査のため一度病院に来てもらえるかどうか尋ねた。 ノーマンとメリックは同意した。 一般庶民の目に触れず素早く病院に移動できるよう、メリックは大きな黒いマントと茶色の帽子と食物を入れる麻布で全身を覆い隠した状態で、トレヴィスが手配したタクシーで病院へ来訪した。 病院でトレヴィスはメリックを診察したが、当時の状況について「メリックはシャイで、混乱している状況で、少し怖がっていて、脅えていた」と話している。 当時、トレヴィスはエレファント・マンは何を話しているのかわからなかったため知的障害だと誤認していた。 上唇から突出した象の鼻状の皮膚組織が一時は20センチ近くに達し、救貧院時代の1882年に、一度、口の矯正手術をしたにもかかわらず、発音がうまくいかず、メリックが話す事はほとんどわからなかった。 このことが原因で当初、メリックは知的障害だと思われていた。 身体測定を行うと、頭の周囲は36インチ(91cm)、右の手首の周りは12インチ(30cm)、指は5インチ(13cm)あった。 肌は乳頭状(いぼ)の腫瘍が広がっており、特にひどい部分からは嫌な臭いが染み出していた。 また、皮膚組織の低下が原因で弛んで、皮膚が部分的に身体から垂れ下がった状態になっていた。 身体の変形で特にひどいの部分は右腕、両足、最もひどいのは頭蓋骨の大きな変形だった。 左腕と左手は大きくはなく正常で変形も見られなかった。 陰茎と陰嚢も正常だった。 脊柱も湾曲しており、歩行には杖が必要だったがそのほかは全体的には正常だった。 原因については当時から、レックリングハウゼン病などとして知られる神経線維腫症1型、また俗には象皮病と結びつけて考えられてきたが、近年では特定の遺伝的疾患群をさすプロテウス症候群とする見方が有力である。 ノーマンはのちに2〜3度検査のために病院に行き、診察時にメリックはトレヴィスから名刺を受け取ったと回想している。 ある診察の日、トレヴィスはメリックの写真を撮影し、のちに自伝パンフレットに追加で掲載されるようになる一連の全身写真のコピーをメリックに渡した。 12月2日、トレヴィスはブルームズベリーで開催されたロンドン病理学会でメリックの事を紹介する。 その後、メリックはノーマンにこれ以上診察を受けたくないと話した。 ノーマンによれば、「裸にされ、牛市場の動物のように感じられた」と話し、病院を嫌がっていた。 また、ビクトリア朝イギリスではこのころに、エレファント・マンのようなフリークショーの展示会に関する世論が変化しはじめた。 ノーマンが開催しているような見世物は、良識の根拠に欠ける点と群衆によって発生する混乱の両方の理由から、社会的関心の1つとして取り上げられるようになった。 フレデリック・トレヴィスの最期の診察からまもなく、警察はホワイトチャペル・ロードにあるノーマンの店を強制閉鎖し、レスターにおけるメリックのマネジメント権をノーマンから取り上げた。 1885年にメリックはサム・ローパーの巡業興行に参加する。 彼はそこで"ローパーの小人"と呼ばれたバートラム・ドゥーリーやハリー・ブラムリーらと親しくなった。 彼らはときどき一般市民らのメリックに対する嫌がらせから守ってくれた。 しかし、フリークショーや奇人に対する一般市民たちの関心は低下し、公序良俗に反するものとして敗訴する風潮が強まり、警察や治安判事たちのフリークショーに対して閉鎖命令がくだされた。 一般市民にとってメリックの存在は「おぞましいもの」という印象だけが残り、また興行師のローパーはエレファント・マンに関する地方自治体からのネガティブな呼びかけにナーバスになりはじめた。 そこで、メリックをマネジメントしている組織は、当局がメリックに寛容になるには海外で評価を高めるのが良いと考え、ヨーロッパ大陸での巡業を行うことにする。 ヨーロッパ大陸でのマネジメントは、よく知らない男(おそらくフェラーリというオーストリア人興行師)に売却されたあと、メリックはヨーロッパへ移る。 しかし、興行はイギリスに比べてまったくといっていいほど振るわず、さらに、イギリス同様、各国当局も興行に対して閉鎖命令がくだされた。 1886年・メリック26歳の時、オーストリア人興行師はジョゼフの商品価値を見限るにいたり、メリックが所持していた50ポンド(現在の価値で約80万)を略奪してベルギー・ブリュッセルで彼を放棄。 メリックはわずかな身の回りの品を質に入れて旅費を捻出し、まずはブリュッセルからオステンデまでを列車で移動し、そこでフェリーに乗ってドーバー海峡にわたろうとしたが搭乗拒否にあう。 しかたなく、アントワープへ移りそこから船にのってエセックスのハリッジに上陸する。 再び鉄道を利用して1886年6月24日ロンドン・リバプールストリート駅に到着した。 ロンドンに到着したものの一文無しで帰る場所のないメリックは、行き交う人々に助けを求めるが何を言っているのかわからなかったためただ不審がられるだけだった。 警察官がメリックを見つけて空き部屋にかくまってくれるまで、好奇心を持った人々がメリックの周囲に集まりはじめた。 唯一所持していたトレヴェスの名刺を手がかりに彼に警察に保護を要請する。 警察がトレヴィスに連絡を取ると、トレヴィスは駅まで迎えにきて、タクシーでロンドン病院に連れて帰った。 病院に戻ったメリックは風呂に入り身体の汚れを取り除き、空腹を満たしたあと、病院の屋根裏部屋の小さな隔離室で寝ることになった。 なお、入院当時のメリックは気管支炎を患っていたという。 メリックが病院に入院することになったため、トレヴィスは以前より緻密な検査をするための時間ができた。 トレヴィスはメリックの体調がここ2年で悪化していたこと、また悪化に伴い畸形が進行して身体がかなり不自由になったことがわかった。 さらに、トレヴィスはメリックが心臓病を患っており、余命がたった2〜3数年であるかもしれないと推測した。 メリックの一般的な健康状態は、病院職人の看護の甲斐もあって入院後5ヶ月で回復した。 看護婦の中には当初、彼の容貌に恐れ看護を嫌がるものもいたが、時間の経過とともに克服し、みんな看護を行うようになった。 身体から漂う不快な体臭は、毎日入浴することで軽減され、トレヴィスは徐々にメリックの会話が理解できるようになった。 その後、メリックの長期看護問題に関して対応する必要に迫られた。 病院委員会の委員長であるフランシス・キャリー・ガムは、トレヴィスによる院内でメリックの看護を支持していたが、11月までに長期計画を立てる必要があった。 ロンドン病院には、メリックのような難病の長期治療を行うための設備が整っておらず、スタッフも不足していた。 キャリー・ガムは慢性的な症例の看護に適した他の施設や病院へ連絡をとったが、メリックを受け入れてはもらえなかった。 ガムは12月4日に発行された新聞『タイムズ』に手紙で、メリックの症状の概要を説明し、読者に助言を求めた。 そのなかでカー・ゴムは、メリックはその容貌ゆえに就業は不可能であり、よって経済的自立も出来ない。 また一般の患者と一緒に療養させることも、ほかの患者に与える影響を考えればやはり避けるべきである。 また本人は救貧院を非常に強く忌避している、といった事情を説明し、メリックを居住させるための個室の設置と、今後の彼の生活のための資金の寄付を求めた。 その後、よる世論の反響は大きく手紙や寄付が多数寄せられた。 イギリス医療ジャーナルでも取り上げられ、地方紙でもメリックの今後に関する記事が掲載された。 多くの支援者からの財政的支援を受けたことで、ガムは病院でメリックをメリックを長期的に看護する根拠のある口実を作ることができ、残りの生涯をずっとロンドン病院で過ごす許可がおりた。 メリックは屋根裏部屋から小さな中庭に面した大小二つの地下室がメリックの住居として改装された。 大きい方の部屋は居間兼寝室として、ベッドやテーブル、数脚の椅子、小さな暖炉が備えられ、小さいほうのもう一部屋は浴室となった。 そしてトレヴェスの方針により、どちらの部屋にも鏡は一つも設置されなかった。 メリックはロンドン病院で落ち着いた新しい人生を送ることになった。 トレヴィスは毎日彼を訪問し、毎週日曜日には数時間メリックと過ごした。 メリックは自分の言葉を理解できる人が見つかったこともあり、トレヴィスとは喜んで長時間の談笑を楽しんだ。 トレヴィスとメリックは友好的な関係を築き上げたが、メリックは決して私事を打ち明けることはなかったという。 メリックはトレヴィスに対して一人っ子であると話していた。 トレヴィスはメリックがいつも所持していた母親の写真から、赤ん坊のときに捨てられたと思っていたという。 当初、メリックがうまく話せないことから知的障害かとトレヴィスは思っていたが、長くコミュニケーションを取るうちに、ごく普通の知性の持つ男性であることがわかりはじめた。 メリックは非常にセンシティブで、すぐに感情的になった。 トレヴィスによれば病院生活のメリックは退屈そうで、孤独なこともあって、うつ病の兆候も見えたという。 メリックは成人以後の生涯を通して女性から隔離して過ごした。 彼と出会った女性たちはすべからく彼の容貌を見るやいなや脅えて逃げた。 そのため、女性に関するメリックの知識は、自身の母親と読書からしか得られなかった。 メリックは女性を紹介してもらいたいと思っており、また、それがメリックの憂鬱を解消させる手段であるとトレヴィスは理解する。 トレヴィスは友人で「若くてかわいい未亡人」の友人のレイラ・マテュリン夫人をメリックに紹介することにした。 彼女はメリットの会合に同意したが、トレヴィスは彼の姿に脅えないよう、前もって注意深く警告してから、メリックの部屋に彼女を連れていった。 会合時間は短かったが、メリックはすぐに元気になった。 マテュリンは人生で初めて私に微笑んでくれた女性であり、初めて握手をしてくれた女性だったという。 彼女とメリックは以後も手紙を通して親交を続けた。 彼女から贈られた本やライチョウの装具の感謝としてメリック自身が書いた手紙があるが、これが唯一現存するメリックの手記である。 彼女と出会ったことは、簡潔ではあるが、メリックの対人恐怖の解消に大きな役割を果たし、彼に自身を与えた。 病院での生活の間に他の女性とも会うようになった。 また、 メリックの希望は盲人施設に住むことだとトレヴィスは理解した。 盲人施設の女性であれば彼の姿を見て怖がる人はいないからだった。 メリックは病院とは違う、外の現実世界を知りたくなり、トレヴィスにいくつかの質問をした。 ある日メリックは一般的な家の中を見てみたいとトレヴィスに頼んで、ウィンポル・ストリート沿いにあるトレヴィス邸に連れていってもらい、またそこで彼の妻とも会った。 病院内でメリックはおもに読書や紙製の模型を作って一日を過ごした。 毎日午後に起きて、日が暮れて暗くなったあと部屋を出て隣の小さな中庭を散歩して運動をした。 トレヴェスは自らの後輩である研修医たちに、空き時間を利用してメリックを見舞うように命じていた。 『タイムズ』へ投稿したカー・ゴムの手紙のおかげで、メリックの存在はおもにロンドンの上流階級で知られ、関心を惹く話題となった。 彼に興味を持った人の中には、ロンドンで人気の舞台女優のマッジ・ケンドールもいた。 彼女はおそらく直接、メリックと会ってはいないが、基金運動に積極的に参加して、庶民に対してメリックに対する同情を示した。 彼女はメリックに自身の写真を送ったり、かご細工教師を病室へ派遣して、メリックにバスケット作りを教えた。 また、さまざまなロンドンの上流社会の紳士淑女がメリックを訪問して面会し、彼に写真や本をプレゼント持参した。 メリックはプレゼントのお礼に手紙を書いたり、ハンドメイドの紙製の模型やバスケットを贈った。 1887年5月21日、当時のイギリス皇太子・エドワード のちのエドワード7世 と、その妃・アレグザンドラがホワイト・チャペルにあるロンドン病院付属医科大学の新館、看護婦寮の落成式に出席した際、メリックの部屋を訪問した。 3回ほどメリックは休日に病院やロンドンから脱出して、イギリスの田舎で数週間過ごしたことがある。 人目に触れないよう入念に顔を隠した状態で電車に乗ったり、専用の馬車を使いながらノーサンプトンシャー州を旅行し、フォーズリー・ホールにある初代ナイトレイ男爵の私有地に余暇を過ごした。 メリックは猟場管理人のコテージに泊まり、日中は私有地内の森を散歩し、野生の花を収集していたという。 当時メリックと親しくなった若い農場労働者は後にメリックについて好奇心音声で高い知性を持つ男だったと回想している。 トレヴィスはメリックのこの田舎での休養期に関して「彼にとって人生最高の休日」と話している。 ロンドン病院に入院してから4年が経過するころには、メリックの病状は以前よりもどんどん悪化していった。 メリックは看護スタッフたちから常に彼に対して注意を払い、またメリックは多くの時間をベッドで過ごしか椅子に座って過ごすことになった。 顔面の変形は悪化し、日増しに頭は大きくなっていった。 1890年4月11日、27歳でメリックは死去。 午後3時ころ、トレヴィスの在宅外科医がメリックを訪問し、彼がベッドに横たわった状態で亡くなっているのを発見した。 メリックの身体は叔父のチャールズ・メリックが公式に確認した。 4月15日、1888年のホワイトチャペル殺人事件の検死を行ったことで有名になった弁護士のワイン・エドウィン・バックスターによる死因審問が行われた。 検死によれば、メリックの死は窒息による事故死で、おそらく横になったときに自身の頭の重さが窒息の原因だという。 また、身体を剖検したトレヴィスはメリックは首を脱臼して亡くなったと話している。 メリックはいつも座ったまま眠っていたが、トレヴィスによれば他の人々のように横になって眠ろうとして首を脱臼したのではないかと推測している。

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