斎藤道三 家系図。 斎藤道三の全てを徹底解説!年表やエピソードから子孫まで完全網羅

明智光秀と帰蝶は従兄妹で決まりですか?

斎藤道三 家系図

《明智光秀》 「引用元より」 つまり「明智光秀」は、「斎藤道三」の「義理の甥」というわけです。 「我が子らは、織田信長の門前に、馬をつなぐことになるであろう」 (息子たちは、信長に到底かなわない。 その家来になり下がるだろう) この言葉は、【 1553年】、斎藤道三が織田信長と「正徳寺(聖徳寺)」というお寺で会見した直後、家来の「猪子兵介」にたいして発した予言です。 (猪子兵介は、のちに織田信長に仕え、「」で亡くなっている) 道三は、「うつけ者(バカ者)」と評判だった若武者「織田信長」の実力を、一瞬で見抜いたのでした。 この予言は、的中します。 斎藤道三は、【 1556年】の「長良川の戦い」で、息子「斎藤義龍(高政)」に討たれて亡くなります。 《斎藤義龍(高政)》 「引用元より」 その際に、道三の二人の息子である• 「斎藤利堯(さいとう としたか)」• 「斎藤利治(さいとう としはる)」 が、信長に臣従、つまり「織田信長の門前に馬をつなぐ」ようになるのです。 道三は、娘「帰蝶」の夫である「織田信長」の能力を、とっても高く評価していました。 亡くなる直前、道三は「国ゆずり状」という書状を残し、「美濃国を信長にゆずる」と書き記しています。 この書状は、のちの「織田信長」による「美濃侵攻」の大義名分となります。 「国ゆずり状」を信長が受け取った「11年後」の【 1567年】、信長は「美濃国」を制圧。 そして「明智光秀」と出会い、「天下布武」の印を使い始め、天下統一へと進み始めるのです。 『斎藤道三と織田信長』について「ひとこと」いいたい 斎藤道三・・・・織田信長の能力を一瞬で見抜いた偉人として有名ですが、息子の能力を見抜けなかったために、悲惨な最期をむかえています。 「斎藤道三」と「織田信長」。 この二人、もともとは「宿敵」と呼ぶべき間柄でした。 「斎藤道三」は、織田信長の父「」と何度となく戦い、ただの一度も敗北したことがない名将です。 つまり、織田信長からすれば、「斎藤道三」は父「信秀」を苦しめ続けた宿敵、というわけです。 「尾張の虎」 「織田のうつけ」 「美濃のマムシ」 「織田信秀」は「尾張の虎」、「織田信長」は「うつけ」、「斎藤道三」は「美濃のマムシ」と、それぞれ呼ばれていました。 そんな「うつけ」と呼ばれた信長は、【 1553年】におこなわれた「正徳寺(聖徳寺)」の会見で、「美濃のマムシ」こと「斎藤道三」から、のちに「国ゆずり状」を受け取るほどに見込まれました。 この「正徳寺会見」では、「斎藤道三」を見事に手玉に取った「織田信長」の能力が際立つようなエピソードが残されています。 しかし、筆者は「うつけ者と評判だった信長の非凡な能力を、たった一度の会見で見抜いた斎藤道三」のほうが、優れた名将だったと感じるのです。 そんな「信長」の能力を見抜いた「斎藤道三」ですが、我が子「斎藤義龍(高政)」のチカラを見抜くことはできませんでした。 道三は息子「義龍(高政)」を侮り続けていました。 「長良川の戦い」で義龍の見事な采配を見た道三は、侮っていた息子「義龍(高政)」の真の能力に気づかなかったことを、ひどく後悔したと言われています。 道三・・・人を見る目はあったのでしょうけれど、肝心なところで失敗した、ということですね。 「麒麟(きりん)も老いては駑馬(どば)に劣る」 といいますが、麒麟児(きりんじ)であった「斎藤道三」も、年老いてしまった・・・・ということなのかもしれません。 「信長の能力を見抜いた」ところまでが、「斎藤道三」の限界だったのでしょう。 「織田信長と斎藤道三の関係」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

次の

【麒麟がくる】斎藤家の人物相関図 土岐家との関係まとめ 義龍、孫四郎、喜平次は誰の子?

斎藤道三 家系図

斎藤道三と織田信長の関係を家系図から簡単に解説! まずは斎藤道三と織田信長の関係性を簡単にご紹介しておきます。 斎藤道三と織田信長は義理の親子の関係:家系図から解説 斎藤道三と小見の方との間に生まれた娘の帰蝶と、一時は敵対関係にあった織田信秀の息子の信長が結婚します。 二人が結婚したのは天文18年(1549年)で、織田信長は当時16歳、帰朝は当時15歳であったとされています。 この二人の結婚は、勢力を拡大しつつあった駿河の今川義元の対抗策として、思惑が一致した斎藤道三と織田信秀が手を結ぶ為の政略結婚だったという見方が一般的です。 織田信長と帰蝶(斎藤道三の娘)との夫婦関係について解説 織田信長と帰蝶の結婚は、両親による政略結婚であったとされており、また、二人の間にまつわる記録もほとんど残っていないことから、仲がよかったのかどうかは謎に包まれています。 織田信長はその後数多くの側室を娶って子供を授かっているなか、正室である帰蝶との間には子供はいません。 こうしたことから、帰蝶は正室ではあるものの、それは形式的ものであって二人の夫婦仲は良くなかったのではないか、という見方が多いです。 ただ、織田信長の娘についての記録は曖昧なものが多く、もしかすると帰蝶との間に娘はいたのかもしれません。 いずれにしても、織田信長に嫁いでからの帰蝶がどうなったのかはよくわからず、その最期も謎に包まれています。 はたして大河ドラマ「麒麟がくる」では、織田信長と帰蝶の関係性がいったいどのように描かれるかも見ものですね。 斎藤道三と織田信長の正徳寺(聖徳寺)での初めての会見のエピソードを紹介! 織田信長と帰蝶が結婚したとはいえ、その父である斎藤道三と織田信長はしばらくの間一度も顔を合わせたことはありませんでした。 二人の結婚から約4年後の天文22年(1553年)に初めて顔を合わせることになりました。 斎藤道三と織田信長の初会見の場所は愛知県一宮市富田の正德時(聖徳寺) 織田信長と帰蝶が結婚してのち、天文22年(1553年)の4月にようやく織田信長と斎藤道三の義理の親子による会見が実現します。 その初会見の場所となったのは、現在の愛知県一宮市富田にある正徳寺(聖徳寺)でした。 この場所は美濃の斎藤家と尾張の織田家の中間に位置する場所で、いわばお互いに対等な立場で会見に臨んだと見て取れます。 なおこの正徳寺は現在は残っておらず、そこには記念碑が残されているだけです。 斎藤道三と織田信長の会見の時のエピソードを紹介 この正徳寺での斎藤道三と織田信長の初会見は、のちの織田信長の活躍を占う意味で象徴的なエピソードのひとつです。 斎藤道三は会見を前に、正徳寺にやってくる織田信長の一行を民家に隠れてこっそりのぞいていました。 その時に斎藤道三が目にした織田信長の格好は、とてもこれから大事な人と会うとは思えないような酷いいでたちであったそうです。 それはまさしく「うつけ者」と言われるのがよくわかるものだったとか。 それに対して斎藤道三は、娘婿に格の違いを見せつけガツンと言おうと礼儀正しい正装で会見に臨みます。 この時、もし織田信長が噂とおりの単なる「うつけ者」であったなら、その場で殺害してしまうことも考えていた、という噂話もあります。 とっころが、そんな思惑を抱いて待っていた斎藤道三の前に現れたのは、最上級に礼儀正しい長裃(ながかみしも)に身を包んだ織田信長でした。 そのあまりにも立派な姿に斎藤道三は度肝をぬかれてしまいました。 この見事なまでの織田信長の演出に、斎藤道三はすっかり気に入ったようで、それは会見後の家臣とのやりとりにも現れています。 斎藤道三が家臣に織田信長のことをどう思ったか尋ねると「やはりたわけ者ですね」と言うと、斎藤道三は「しかし残念なことだ。 あのたわけ者の前に我が子供らは馬を繋ぐことになるであろうよ」と言いました。 つまり「いずれ自分の子供も織田信長に従うことになるはずだ、それぐらい織田信長はのし上がっていくに違いない」と感じたわけです。 この二人の初めての会見は、その後の織田信長の片鱗をのぞかせると同時に、その器の大きさを予見していた斎藤道三の洞察力を象徴するエピソードなんですね。 会見後の斎藤道三と織田信長の関係を解説!道三の手紙(遺言書)からもわかる信長への信頼関係 会見以降、斎藤道三は織田信長に対して絶大な信頼をおいていたようです。 それは、晩年に斎藤道三が残した手紙(遺言書)によく現れています。 どういうことかというと、自分が死んだ後は、実の息子達ではなく織田信長に美濃の国を譲ると書いてあったのです。 斎藤道三には跡取りとなる息子も何人かいましたが、その息子たちを差し置いて娘婿の織田信長に後を任せたわけです。 ただ、その背景には息子の斎藤義龍と不仲だったことも一因だったのかもしれません。 息子の斎藤義龍は実は斎藤道三の子供ではなかったという噂もあり、その影響もあってか、後に道三と義龍の親子の仲は決定的に崩れます。 そして、ついには親子で戦となり、この親子の戦「長良川の戦い」によって斎藤道三は討ち死にしてしまうのです。 なお、この「長良川の戦い」に織田信長も兵を送って斎藤道三を援護しようとしたのですが、残念ながら合戦には間に合いませんでした。 その時の様子は下記の記事にまとめていますので、併せて読んでもらえるとより一層状況がわかると思います。 義理の父である斎藤道三とは信頼関係を築いていた織田信長ですが、その道三を殺害して美濃を治めることになった義龍や、その子・龍興とは対立する関係になっていきました。 大河ドラマ「麒麟がくる」でも、この斎藤道三と織田信長は登場しますが、今後は息子の斎藤義龍(高政)との関係もどのように描かれるかが楽しみですね。 ちなみに斎藤道三も「美濃のマムシ」と呼ばれ、戦国時代の下剋上を成し遂げた代表的な人物です。 そんな斎藤道三の生い立ちや、なぜ「美濃のマムシ」と呼ばれたかについてもまとめましたので、興味のある人はぜひ下記の記事も読んでみて下さい。 さて、このブログでは他にも大河ドラマ「麒麟がくる」の時代背景を取り上げた記事を掲載しています。 登場人物の関係性など、ドラマでは描ききれなかった裏側についても書いていますので、さらに深く楽しみたいと思った人はこちらも併せて読んでもらえると嬉しいですね。

次の

斎藤道三の全てを徹底解説!年表やエピソードから子孫まで完全網羅

斎藤道三 家系図

斎藤道三 さいとうどうさん• 幼名は峰丸。 通称は新九郎。 法蓮房、松波庄九郎、長井規秀、斎藤利政など多くの別名を持つ。 道三は、僧侶から油商人となり己の才覚をもって謀略を駆使し、美濃一国の「国盗り」を成し遂げた下克上大名の典型といわれる人物である。 だが、近年ではこの「国盗り」は道三1代で成し遂げたものではなく、その父・西村新左衛門尉と2代にわたって行われたといわれている。 1533年、父・新左衛門尉が死去し、その主人である長井長弘も世を去ると、道三は長井家の家督と所領を乗っ取り、1538年には美濃守護代・斎藤利良が病死すると今度は斎藤の名跡を継ぎ、翌年、斎藤氏の居城だった稲葉山城に入城し大改築を行った。 さらに道三は1542年には守護・土岐頼芸とその子を追放し、美濃を手中に収めた。 1548年、道三は尾張の織田信秀と和睦すると、娘の帰蝶(濃姫)を信秀の息子・織田信長に娶らせた。 この時、道三は「うつけ」と聞いていた信長が噂とは異なる人物であると見抜きその評価を一変させ、家臣に対し「わが子たちはあのうつけの門前に馬をつなぐようになるであろう」と言ったという。 織田家の後援を得た道三は、1552年、土岐頼芸を尾張へ追うと完全に美濃を平定、2年後には家督を嫡男・義龍に譲り隠居した。 しかし、もともと折り合いの悪かった道三と義龍の仲は悪化、ついに1555年、義龍は道三に対し兵を挙げるに至った。 そして、両者は長良川河畔で激突したが、義龍軍と道三軍との兵力差は大きく、道三は波乱の人生に幕を閉じた。 斎藤道三を共有しよう!.

次の